私たち葬儀屋さんは、余命宣告された方々の辿られた人生を垣間見る機会があります。
或いは病名の告知や余命の宣告を受けずとも、ご自身に残された時間はそう長くないことを感じ取られた方の辿られた歩みを。
場合によっては
亡くなられる前のご本人と直接お会いして、お話を伺うこともあります。
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私たちは人生には限りがあると知りつつ、それが「すぐそこにある」こととはなかなか自覚しません。
その日その時はいつなのか分からない。
でもその日は、あくまでも遠い先のお話。
そういう前提で私たちは日々を過ごします。
だから私たちは自分の人生を設計するし、未来を夢見ます。
しかしある日突然
何らかのきっかけによって自らの病を知り、自らに与えられた具体的な時間の長さを知らされる。
これは誰にでも起こり得ることです。
そしてそれはもしかすると明日、なのかもしれない。
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私の知る限り
ご自身に残された具体的な時間の長さをお知りになられた方々の多くが、それまでと大きな違いのない生活を送られていらっしゃいます。
もちろん治療の為の通院や入院はあります。
「違いのない生活」というのは、そのスタンスのことです。
「自分の人生とどう向き合うのか」
そのスタンスにおいて
多くの方はそれまでと変わらない姿勢で臨まれていらっしゃるようなのです。
たとえば。
重篤な病に侵され、ご自身の余命を告げられた方。
その方は通院治療を続けられながら
途中やりになっていた、ご自宅のお庭の草刈りを続けられました。
私たちからすると
(そんなことより他にやられたいことがあるのでは?)と考えがちです。
しかしその方は
「今私に出来ることをしておきたいので」と答えられたのでした。
「最後まで私らしく生きたいのです。
これを止めてしまうと、私が私でなくなってしまう。
これが私の人生だと受け止めておりますので」
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葬儀屋さんをさせていただくようになって
「常に」というほどでもないですが、かなり頻繁に意識するようになった言葉。
“ Carpe diem ”
これまでにも何度かこのブログで取り上げている言葉です。
「その日を摘め」
「一日を摘め」
転じて
「今を生きろ」
「その日一日を生きろ」
決して「未来を考えるな」ということではないと思います。
「アリとキリギリス」のキリギリスになれ、というのとも違うと思います。
今を生きない者に未来はない。
未来とは「今の積み重ね」の先にあるのだ、と。
今日という日を迎えて
私はそんなことを思いながら、今を生きようと思います。