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カテゴリ:キリスト教( 212 )

『いのフェス名古屋』開催!

 
いよいよ正式発表です!



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・・・今をさかのぼること5年
2011年に、第一回目の『いのりフェスティバル2011』が開催されました。

ちょうどその少し前
我が盟友であり、兵庫県でキリスト教専門葬儀社「シャローム式典社(現:『株式会社シャローム』)」を運営される高見晴彦さんと知り合いまして、
ほんの軽い気持ちで(笑)参加させていただいたのがはじまりでした。
それ以来
高見さんと私は『CCFI』として(『いのフェス神奈川』以外)毎回参加させていただいております。

キリスト教各宗派の垣根を超え
また、旧来のキリスト教的固定観念に囚われない自由な発想で、参加者それぞれが好きなことを発表するという場所であります。

・・・さて。
この『いのフェス』が、いよいよ名古屋開催の運びとなりました!


開催日:2016年11月5日(土) 11:00~17:30

会 場:愛知県産業労働センター『ウィンクあいち』
    (〒450-0002 愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38)

入場料:も・ち・ろ・ん 無料!






・・・えっと
宣伝しておいて何ですけど
まだ私、参加するかどうか確定しておりません (^^ゞ
でも、もちろん前向きに検討しております。

興味のお有りの方
是非遊びに行ってみましょう~ ♪






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by dscorp-japan | 2016-08-17 00:11 | キリスト教 | Comments(4)

野生に還ろう!

 
この時期、多くのキリスト教会では
教会学校(=チャーチスクール・CS)の子どもたちが「サマーキャンプ」と称して、海へ山へと繰り出しているようです(はるさんのブログをご参照ください)


私も若かりし頃、所属する教会の教会学校スタッフに名を連ねておりまして
この時期ともなると、毎年子どもたちの引率として参加しておりました。
・・・ま~私の場合
専ら子どもたちと一緒に遊び呆けてるだけだったんですけどネ~ (^^ゞ

懐かしいなァ・・・
クッソ暑い、中途半端な都会の喧騒を離れて
土と、木と、水と、虫(←汗)と触れ合って
多少のケガなんて怖がらずに思いっきり野生に戻る感じって、普段は体験できないことじゃないですか。

っていうか
昔以上にそういう機会って減ってきていると思うんですよ。
聞くところによると
いまどきの家族旅行の行き先って “ 某夢の国 ” だったり “ 某映画系遊園地 ” だったりするらしいじゃないですか。
でなければ、いきなり海を渡っちゃう感じ?

もちろんそれがダメとは申しませんけれど
たまにゃ「自然のなかに身を置く」という経験って、貴重だと思うんですよね~


昨今ではサマーキャンプへの参加人数が減ってきているようです。
学校の部活動もあるだろうし
学習塾の夏期講習みたいなのもあるんでしょうけれど・・・
・・・何だかなァ・・・

ウチのスタッフのひとりは
私の教会学校時代の “ 教え子 ” だったりします。
彼、いまでもその当時のことをしっかり覚えてます。
そういう思い出って、きっと一生モノだと思うんです。

・・・今の子どもたちにも
是非そんな経験をしてもらいたいなァ~と思う次第デス。






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by dscorp-japan | 2016-08-11 00:06 | キリスト教 | Comments(2)

『 家族のなかで私だけがクリスチャンです。私のお葬式がどのようになるのか心配です 』

 
『 あなたの意思を、出来るだけ具体的にご家族と所属教会に表明しておくことが大切です 』


 「家族のなかで自分だけがクリスチャン」という環境にある方は少なくないと思います。このような方々にとって、ご自身のお葬式は心配の種でしょう。結論から申しますと、ご自身のお葬式をキリスト教式で行いたいという希望が間違いなく叶えられる保証はない、と言わざるを得ません。
 よく「公正証書遺言を作成してそこに自分の葬儀に関する希望を記しておけば、法的拘束力があるから安心だ」と思われがちです。しかし、法的拘束力が伴うとされる公正証書遺言に記載されていても、ご自身に関する葬儀の希望は、法律上の効力が生じない事項となります。あくまでも「本人の希望が記載されている」に過ぎないととらえられるということあります。それでも「公正証書遺言に書かれているのだから」ということで、相続人(≒ご家族)がその意思を尊重してくれるだろうと期待できるかもしれませんが、必ずしもお葬式を執り行う前の段階で公正証書遺言を開封してもらえるという保証もありません。

 以上のようなことから個人的にお勧めするのが、昨今様々なメディアでも取り上げられております「エンディングノート」の作成です。もちろんエンディングノートに法的拘束力はありません。しかし事前にこれを作成して、ご家族のなかでも特に信頼出来る方にこれを託しておくことで、あなたの希望が叶えられる可能性は高まると考えられます。そして可能であれば、エンディングノートに記した内容を、所属教会の牧師(司祭)にも自筆文書で託しておかれるとよいでしょう。

 エンディングノートを作成するうえで大切なことは、ご自身のお葬式を執り行う上での手順を出来るだけ具体的に記しておくことです。ご家族がクリスチャンでない以上、キリスト教葬儀をどのように進めればいいのか、ご家族には分からないだろうからです。

 ・ご自身が亡くなった場合、まずどこに連絡すればいいのか。
 ・お葬式はどこで行いたいのか。
 ・葬儀屋さんはどこに頼めばいいのか。

 特に重要なのが「どこに連絡すればいいのか」という点で、基本的には所属教会の牧師(司祭)を窓口とされるのがいいでしょう。先に申しましたように、事前にご自身のエンディングノートに記載した内容と同様の文書を牧師(司祭)に託しておかれれば、教会サイドもよりスムーズに対応することが出来るでしょう。そしてまたクリスチャンでないご家族に対しても、適切なアドバイスをしていただけることが期待できると思われます。
 最近ではクリスチャンを対象としたエンディングノートも販売されております。この点も踏まえて、所属教会の牧師(司祭)にご相談されることをお勧めいたします。





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by dscorp-japan | 2016-07-04 00:00 | キリスト教 | Comments(2)

教皇・フランシスコによる刷新

 
ローマ・カトリック教会の現教皇・フランシスコ(以下:パパ様)がまたひとつ
新しい教会の指針となり得る発言をなさったとのことです。
(ニュース記事はコチラ

パパ様はこれまでにも
離婚信者・再婚信者に対する寛容な姿勢を示されたり
女性聖職者解禁の検討を約束されたり
これまでのカトリック教会の(良きにつけ悪しきにつけ)伝統を打破する発言をされていらっしゃいます。

おそらくパパ様は
これまでカトリック教会が定めてきた様々な障壁を出来る限り取り払って「世界中のあらゆる人を神様は愛して下さっている」という、ただ一点に照準を合わせた司牧をお考えなのではないでしょうか。

様々なご意見があることは存じております。
そのうえで
私個人としては、パパ様の方針に(いまのところ)100%同意するものであります。

            ♢

若かりし頃の私は
かなり保守的なカトリック信徒だったと思います。
決してストイックではなかったものの
「是は是、非は非」というスタンスだったと思います。

しかし私も歳を重ねるなかで、それなりに様々な経験をしてきました。
その「経験」とは
端的に申しますなら「生きていくうえで(仕方なくも)積み重ねてきた数々の罪」と言い換えることができると思います。

「カトリック信徒、かくあるべし」
それはたとえば十戒であり
カトリック教会が歴史とともに育んできた戒律であり
カトリック信徒としての「理想像」であります。
理想は理想として
これからもある程度堅持されていくべきでしょう。
「出来る限りこうあると良いよね」
という指針はあって然るべきでしょう。

しかし現代社会に生きる私たちは
カトリック教会の掲げる理想と現実とのギャップに、誰しもが大なり小なり悩みを抱えているのではないでしょうか。
私たちひとりひとりの抱える、教会の提示する理想と現実社会の間にある様々な矛盾が
これ即ち「罪である」と断罪されることによって
(自分は神の子として似つかわしくないのではないか)と自責の念にかられ、その結果として神の救いに対する「絶望」へとつながるとするなら、これは大きな問題だと思うんです。

イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコによる福音 2章17節)



私たち人間は不完全な存在です。
もとより不完全な私たちなのですから
不完全な私たちをこそ、カトリック教会は受け入れるべきなのではないかということです。

パパ様が仰った「キリスト教徒は同性愛者に謝罪するべき」というお言葉は
不完全な私たちが、また不完全な他者を「自分と全く同じ不完全な存在」として認め合うことを提示しているように思います。
これは
同性愛者が「不完全」という意味ではなく、同性愛者もそうでない人間もまったく同等の「不完全な存在」である、という意味です。

            ♢

若かりし頃の私は
自分のことは棚に上げて、他者を裁くようなところがありました。
ところが
それまで私が裁いてきた様々な「罪」を私もまた犯すに及び、罪を犯す人間の思いや苦しみ、痛みを学んだように思います。

「自分が犯したから相手も許すなんて、都合がいい」

・・・たしかにその通りなのです。
しかし
不完全な私たちは、そうして学んでいくしかないのだと思うのです。


主の祈りにある一節
「私たちの罪をおゆるしください。
私たちも人をゆるします」


ここでいう「ゆるす」という言葉は
「受け入れる」「認める」と言い換えることが出来るかもしれません。

・・・つまりパパ様は
教会はこれまで以上に
あらゆる人間を「受け入れます」「認めます」と仰っているように思うのです。






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by dscorp-japan | 2016-06-28 00:00 | キリスト教 | Comments(2)

主のご復活をお祝い申し上げます

 
イースター(復活祭)であります。
私たちキリスト教徒にとって
一年でいちばん大切なお祝いの日であります。

さて。
そして昨日
復活徹夜祭のミサにおいて、私のガッコのセンセ時代の教え子のひとりが、カトリックの洗礼を受けました。


常々申しておりますように
私が他者に対して、積極的にカトリックの洗礼を受けるように勧めることは決してありません。
・・・そういうの、大嫌いなので。

ただ相手から
「キリスト教の勉強がしたい」
「カトリックの洗礼を受けたい」という意思表示があれば、教会の神父様を紹介することはありますが。

もっとも
私をみて「洗礼を受けたい」などと仰る御仁には
「私を手本にしてというなら、もう一度よォ~く考えろ!」と言います。
「オマエでさえクリスチャンなんだからオレだって」
と仰るお方には・・・返す言葉が無いわけなのですが (^^ゞ


今回の教え子、元々カトリックの家系の人間ではあったのです。
ただ
これまで本人はカトリックに触れる機会が無かったようなのですが
どうやら本人も歳を重ね(失礼ッ)いろいろと思うところがあって、カトリック要理の勉強をしたいと思い至ったということのようです。

どうやら本人は
「自分のような人間は洗礼を受けるに値しないのではないか」という思いを抱いているようですが・・・
「そういう人にこそ神は寛容である」ということは申し上げたい。
そのように考える人こそ洗礼を受けるに値する人間なのだと、私は思います。


洗礼を受けられる方に対して
私がいつも申し上げることは、ふたつです。

「謙遜である」ということ。
神に対しても、人に対しても。
出来得る限り、常にその意識を忘れないこと。
謙遜であるということは「受け入れる」ということです。
あらゆる事象に、必ず神様の意思が介在するのだと意識できれば
すべてに対して謙遜でいられるはずだ、と。

もうひとつが「祈りを忘れない」こと。
私の考える祈りとは
「神に向き合うこと」「神に話しかけること」だと考えております。
(お叱りを受けるかもしれませんが)
私は「教会の定める祈りを欠かさず果たすべし」などとは思っておりません。
「毎週日曜は教会へ行け」とか
「毎日ロザリオを一環やれ」とか
そんなの私、全然やってませんし (^^ゞ

自分の思いと言葉でもいいじゃないですか。
その、心からの語りかけの対象が神であればいいのだと。


「謙遜であること」
「祈りを忘れないこと」
・・・このふたつを続けてるうちに、ですね
きっとあなたは、ごく自然に神様を近くに感じられるようになる。

すると
神様に泣き言が言える(笑)
神様に愚痴ることができる(笑)

これが結構使えるんですよォ~ ♪

何たって私
それが出来るってことだけで、不良カトリックを続けていられてるわけですから ^^;


・・・全然アドバイスになってねェや・・・(><)






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by dscorp-japan | 2016-03-27 00:00 | キリスト教 | Comments(12)

私にはできない

 
今日は多くを語ることを控えます m(_ _)m


ネット上の
様々な事件や芸能記事などに寄せられるコメントを拝見するにつけ、思い浮かぶ聖書の箇所を。


『ヨハネによる福音書』8章の1節~11節です。

イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」



もうひとつ、思い起こされる箇所。
『マタイによる福音書』7章の1節~2節です。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」


(いずれも新共同訳『新約聖書』より)


・・・私にエラそうなことを語る資格などありません。
それでも敢えて申しますなら
私には石は投げられないし、裁かれるのがイヤなので裁くことも控えます。


私は罪深い人間ですから m(_ _)m





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by dscorp-japan | 2016-03-18 00:00 | キリスト教 | Comments(4)

食前の祈り・食後の祈り

 
中途半端に節食したりするから、頭の中は食べることで一杯 ^^;


ところで。
日本では
食事の前には手を合わせて「いただきます」といい
食後にはやはり手を合わせて「ご馳走様でした」といいますね。
これ、日本人の美徳が端的に表れたものだと思うんですね。
命の糧である食事ができることを
いわゆる「神様」に
自然の恵みに
そして、食事を用意してくれた人(母親など)に感謝するわけですよね。
感謝するという意味だけでなく
食事をするうえでの礼儀としても、美しいものだと思います。

私の父母はあまり褒められた人間ではないけれど
食事に感謝することだけは、厳しく教えられました。

「必ず手を合わせて『いただきます』と口にせよ」
「出された食事には一切文句を言うな」
「食べ物の好き嫌いは許さない」

ついでに
食事の際のマナーもうるさかったなァ。

おかげで私
一切の偏食はありません (^^ゞ

            ♢

ところで。
西洋にはそういう文化がないのでしょうか。

キリスト教文化として申しますと・・・
たとえば外国映画の家庭における食事の場面で
家長である父親に倣い、十字を切って手を合わせるところをご覧になった方もあるかと思います。
或いは十字は切らずとも、手を合わせて頭を垂れるとか。

「食事の恵みを与えてくださった神に感謝する」
という意味においての「いただきます」や「ごちそうさま」は、あるんですね。

私はカトリックですから
カトリックの「食前の祈り」「食後の祈り」をご紹介しますと・・・

食前の祈り
『父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。
ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン』

食後の祈り
『父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。
あなたのいつくしみを忘れず、すべての人の幸せを祈りながら。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン』


とはいえ

では私が毎食のたびにこの祈りを唱えているかというと・・・

・・・殆どやってません ^^;

まァ私はダメ信者ですから、こんなもんです。

というかですね
私が覚えているお祈り、古いやつなんですよ。

公教会祈祷文の食前の祈り
『主、願わくはわれらを祝し、また主の御恵みによりてわれらの食せんとするこの賜物を祝し給え。
われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン』


公教会祈祷文の食後の祈り
『とこしえにしろしめし給う全能の天主、数々の御恵みを感謝し奉る。

願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。アーメン』



一年ほど前
とある老齢の神父様を囲んだ食事会の席にお招きいただいたときのことです。
どういうわけか、食前の祈りを唱える先唱を私が仰せつかったんですね。

「いや、私は古いお祈りしか覚えてないんです・・・」

暗に断ろうとしたんですが(笑)
そしたらその神父様が

「良かった!
実は僕も似たようなもんなんだよ!
新しいお祈りを覚えてないわけじゃないんだけど
独りで食事するときに唱えるのは、いまだに古いお祈りなんだよ!
いいよオカダ君、古い祈りで祈ろうよ」

・・・というわけで
その場では古い祈りの言葉で祈ったという次第でした、と。



あぁ
腹減った・・・






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by dscorp-japan | 2016-02-11 00:00 | キリスト教 | Comments(4)

今年も「灰の水曜日」

 
・・・記事ネタが無いからといって
毎年、この『灰の水曜日』についてつらつらと書いております(過去記事 )。


毎年のように書いておりますが
・大した信仰心もなく、推奨されている大斎小斎を、ただ漫然と意識だけする
・普段の生活では一日一食でもへっちゃらなのに、何故かこの日だけは無性に腹が減る
・で、結局何も守れずに一日が終わる

・・・というのは、おそらく今年も同じでしょう ^^;


考えてみれば
カトリックの大斎・小斎なんて、大したことないわけなんですよ。
なんたって、年にたったの二日間だけですよ?
どうってことないはずなんです。

他宗教のことはそれほど詳しくありませんけれど
たとえばイスラム教の『ラマダン』なんて、約一ヶ月もの間節制するんですよね?
食事の節制だけにとどまらず
たとえば私には到底守れない『喫煙』も含まれたりするんですよね。


・・・無理。
絶~ッ対に無理 (^^ゞ

            ♢

そんななか
うちのスタッフのS君が、昨日から禁煙をはじめました。

果たしてS君
紫の煙から完全に離れることが出来るでしょうか!(笑)

「オマエはどうなんだ!」


・・・やる気なし。







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by dscorp-japan | 2016-02-10 00:00 | キリスト教 | Comments(2)

私のクリスマス

 
クリスマスが終わって
お仕事されていらっしゃる方々は皆、一気に年末モードといったところでしょうか。
ウチのようなちっぽけな会社にも
取引業者さんがご挨拶に来られたりしてます。

・・・で
結構皆さん、尋ねられるんです。

「キリスト教徒さんのクリスマスってどんな感じですか?」

だから私も正直に答えますよね。

「日中は普通に仕事して
夕方から教会に行って
午後8時からの司教ミサに与って
帰り道の途中でラーメン屋に入って
家に着くのはもう夜中だから、しばらくテレビをぼんやり観て寝ましたよ」と。

・・・まァそりゃ
私の場合は独り身ですからこんなもんですよね ^^;

しかし
家庭のあるスタッフに聞いても、大したイベントは無いようですよ。
大体からして
世間の皆様が “ クリスマスディナー ” や “ クリスマスパーリィ― ” に興じる時間
クリスチャンは礼拝やミサに出ていて、帰途に就く頃は夜も更ける頃です。
それからあらためてディナーやパーリィーする元気は無いみたい ^^;

世間の皆様のような楽しいイベントがある方って
・・・まァ少ないんじゃないでしょうか。


私が青年だった頃からの話をいたしますと・・・

当時私は所属教会の侍者長だったので
午後7時からの洗礼式・8時の司教ミサ・10時のミサ・夜半0時のミサのすべてで、侍者としてミサの奉仕者をしてました。
その後はそのまま教会にお泊りして、翌日午前のクリスマスミサでも侍者で奉仕でしたから、終わったときはもうクタクタでしたよね。
葬儀屋さんで言うところの夜勤明けみたいなもんですよ(笑汗)

侍者を退いてからだって
今度は毎年、教会周辺道路で車両整理に駆り出されてました。
イヴの夕刻から午前1時過ぎくらいまで
寒空の下、ひたすらクルマの誘導に奔走してました。
だからあの頃は毎年、クリスマスの後は風邪ひいて寝込んでましたよね (><)

普通に「ミサに与って帰れる」ようになったのは、ここ10年くらいですよ。


・・・だからですね。
少なくとも私の場合、クリスマスなんて大っ嫌いだったわけですよ (-_-;)

侍者の頃は
腕を組んで教会を訪れる数多のカップルを妬み
そのカップルから「写真撮って下さい」と言われては作り笑顔でシャッターを切り
夜中クタクタになって、ようやく用意された豚汁で暖をとり
寝不足の目をこすって翌日のミサ奉仕をして・・・

駐車整理のときは
クルマで押し寄せる方々から駐車場が無いことを責められ
強引な路上駐車をする黒塗りベンツたちに移動をお願いしては怒鳴られ
一方じゃ違法駐車を取り締まるお巡りさんからも指導を受け
挙句、翌日は風邪で職場を休んでヒンシュクを買い・・・

・・・嫌いにもなりますわそりゃ (><)


齢50を超えて
ようやく平常心でクリスマスを迎えられるようになったという次第デス。






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by dscorp-japan | 2015-12-27 01:22 | キリスト教 | Comments(2)

『愛の湧き出る泉』 西経一神父

 
皆様、主の御降誕おめでとうございます!
この拙いブログをご覧いただいている皆様の上に
神様の豊かな恵みと慈しみ、そして慰めがありますように m(_ _)m

さて。
今日は『カトリック新聞』のクリスマス号に掲載された、我が畏友:西経一神父様の文章をここでご紹介して
お祝いの代わりとさせていただきます。


『愛の湧き出る泉』 西経一神父(神言修道会)

 愛の湧き出る泉、それをかなしみといいます。
かなしみを深く味わう人、かなしみを身をもって思い知る人、それを愛の人と呼びます。
かなしみは引き裂かれるその裂け目から湧き出ます。
引き裂かれる痛みから愛は生まれるのです。
別離はかなしみを生み出し、かなしみは、やがて、愛の母となります。
別離のかなしみを知らない人が愛を知ることはありません。
わかたれる傷口の痛みを知ることのない人が愛を知ることはないのです。

 神のひとり子は、愛の人としてお生まれになりました。
神のひとり子は、その誕生のときから、すでに、かなしみの人でありました。
神でありながら、神であることからわかたれて、人となられたのです。
かなしみを知る愛の人は、また、泊まる場所もなく野宿していた羊飼いたちのかなしみを、身をもって知る方でありました。
それゆえ、羊飼いたちと同じく泊まるための場所を持たない者として、飼い葉桶にその身を置かれたのです。

 神のひとり子がお生まれになった時代、人々はエルサレムに代表される都市生活および定住生活になじんでいて、遊牧はもはや主たる産業ではありませんでした。
福音書に記されてある、羊飼いたちが働いていた「地方」というのは、人々の利害関心が集中する都市あるいは農作地域に対して、そうした関心の外にある、入植者のほとんどいない土地を意味しています。
その「地方」、つまり当時の社会の中心から切り離された、文字通り「はずれ」の周辺部で、夜通し、野宿しながら働いていたのが羊飼いたちだったのです。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の知らせは、まずもって、人々の関心の中心から「はずれ」ている周辺へと追いやられ、泊まる場所もなく野宿しながら、夜通し働いていた羊飼いたちに告げられました。
わたしたちもまた、その「はずれ」の場において自分自身を見い出さねばなりません。
その場に身を置いてはじめて「天には栄光、神にあれ。地には平和、み心に適う人にあれ」という天使の歌声も耳に届くことでしょう。

 さあ、中心からわが身をはずしましょう。
立ち去りましょう。
立ち去り引き離された痛みとかなしみのただ中に、引き裂かれたその裂け目の中にこそ、飼い葉桶は置かれてあるのですから。
さあ、みずからを裂くことによって平和と一致を与えられる主キリストの祭壇をともに囲みましょう。
食卓では心をこめてケーキを裂きましょう。
わが身を裂くことをプレゼントといたしましょう。
身を裂く痛みに咲く花の名を、愛というのです。







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by dscorp-japan | 2015-12-25 00:00 | キリスト教 | Comments(8)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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