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カテゴリ:キリスト教( 212 )

“なんちゃって”告解。

なんちゅうタイトルじゃ・・・。

『告解』について今一度説明しますと
カトリック信者が、聴罪司祭に自分の罪を洗いざらい告白するというものです。
よく欧米の映画で出てきますでしょ。
教会の片隅にあるトイレみたいな小さなお部屋の、一方に司祭が入りもう一方に罪を告白する信者が入る場面。
ここで信者は自分の罪の“全て”を告白し、その罪の赦しを乞います。

しかしネ、これがなかなかどうも・・・(汗)
だって、自分の犯してきた(或いは現在進行中の)罪を正直に話すなんて、難しすぎますよね。
私も何度も告解はしたことがありますが、毎回自分の罪の全てを告白しているかというと・・・
すんません、隠したことあります・・・m(_ _)m

で、“なんちゃって”告解。

これは私が、時折個人的にやっているインチキ告解です。
周りに誰もいないとき(私の場合独り身だから家で出来ます)、自分の犯してきた罪の全てを声に出すんです。
“声に出す”ってのがミソでして・・・(照)
これ、やってみると分かるんですが、声に出すことで、自分の罪をより強く自覚するんですね。
自分のイケナイところ、普段はなかなか自覚しません。
しかし、自分で自分の悪かったところを思い返して声に出すことで、自分の耳で反芻するんですね。
更に言うと
心の中でだけ意識していた罪をいざ言葉にしてみると、自分でもビックリするような辛辣な表現で口から出てくるんです。
(オレの罪はこんなにヒドイんかい・・・)

私が知っている限りでも、カトリック信者さんのなかで告解を受けたことが無い方って結構いらっしゃるんですよね。
その気持ち、すンごくよく分かります。
勇気、要りますよね・・・。
でも、それでもやってみた方が良いです。
何度もやったことのある私が言うんだから、多分間違いない。
最初は全部は話せないでしょう、きっと。
でもいいんです、多分。
やらないよりはやった方がいい。


手始めに一度“なんちゃって”告解でリハーサルってのはいかかなもんでしょうか。
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by dscorp-japan | 2010-03-15 02:37 | キリスト教 | Comments(2)

『許し』と『赦し』

日曜日だし、“たまには”キリスト教のことも考えましょうか(←“たまには”ってどうなのよ・・・)

キリスト教では『赦し』という言葉を使います。
『許し』じゃなくて『赦し』。
声に出してみると何ら違いはないのですが、その意味するところが大きく違います。

『許し』は許可の『許』。
『赦し』は容赦の『赦』。

・・・こう書くとそのニュアンスが伝わるのではないでしょうか。

『許し』なら
「アナタの罪を許可します」となります。
対して『赦し』なら
「アナタの罪を容赦します」となります。
許可はしないけれど、(仕方なく)容赦しましょう、というニュアンスです。

私は、キリスト教が『赦し』という言葉を大切にするところが好きなんです。

小さい頃、よく親にこう言って叱られました。
「アンタは同じことを何回繰り返せば気が済むの?」
・・・でも、これまでの自分を思い返してみると、これは40代も半ばの私にでさえ当てはまる言葉です。
人間、いくつになっても同じ失敗を何度も繰り返し、同じ罪を重ねる生き物なのではないでしょうか。

では、私たち人間が繰り返す愚行を『赦す』ものは何でしょうか。
それが「愛」だと、キリスト教は言うのです。
普通ならサジを投げたくなるほど呆れんばかりの愚かな私たちを、何度も何度も『赦す』神様。
そこには私たちには計り知れないほどの深い愛があるからこそだというのです。

今、カトリック教会では四旬節という暦の時期です。
この時期、私たちは自分の罪を省みて、今一度自分たちの生き方を考えることを勧められます。
そして私たちは、自分たちに常に注がれている神様の無限の愛を再認識するのです。

・・・心の中でだけでも「ゴメンナサイ」してみましょうか・・・
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by dscorp-japan | 2010-03-14 23:55 | キリスト教 | Comments(2)

『煉獄』

「れんごく」と読みます。
これはキリスト教、特にカトリック教会でいわれるものです。
その意味は
『死後地獄へ至るほどの罪はないが、すぐに天国に行けるほどにも清くない魂が、その小罪を清めるため赴くとされる場所である』(ウィキペディアより抜粋)
・・・と、まぁそういうことですわ。

現代のカトリック教会において『煉獄』の存在を肯定する考え方は少なくなってきております。
ただ、古くからの信者さんなどは今でも煉獄の存在を信じていて、煉獄にいる魂のために祈る方もいらっしゃいます。

私個人としては『煉獄』の存在を肯定も否定もしません。
だって、行ったことないから知らんもん・・・。

ただ、時折こんな風に考えることがあります。

「今私たちが生きているこの世の中こそが『煉獄』なんじゃないか」って。

この考え方、実は仏教にも相通じるところがあると思いませんか。
「この世は『修行の場』である」という考え方。
ご存知の通り、仏教の多くは『輪廻転生』を信じるわけですが、前世で果たせなかった『お勉強』、やり残した『宿題』を今の世の中でやりなさい、というわけです。

輪廻転生があるのか否かは知りません。
ただ、今私たちが生かされていることの意味を考えるとき、それが『修行』であるとするなら、この世はまさに『煉獄』とは言えませんでしょうか。

だとするなら
どんな宗教の人であれ、私たちは皆今よりもほんの少しだけでも、今生きている意味(或いは生かされている意味)をちゃんと考えるべきなのではないでしょうか。
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by dscorp-japan | 2010-03-02 23:13 | キリスト教 | Comments(2)

『カトリック美濃加茂教会』

今朝がた、以前から葬儀予約をいただいていた方から葬儀のご依頼をいただきました。

カトリック美濃加茂教会の信者の方でした。
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約半年前、カトリック美濃加茂教会から「教会としての公式な印鑑がないので作ってほしい」とのご依頼をいただきました。
カトリック教会というのはご存知の通り、ヴァチカンを頂点とする組織です。
たとえ小さな教会であれ、教会としての公式文書のやりとりなんかがあった場合「この書簡は間違いなくカトリック教会として発行したものです」という証明が要るわけです。
そのために、各教会としての印鑑が必要なんだそうです。

・・・葬儀屋さんの私なんかに何故ご依頼があったかというと、私が大学時代にデザインを専攻していたことをここの神父様がご存じだったからなのでした。

印章に要れる内容の条件は
 ・カトリック美濃加茂教会の守護聖人である『日本26聖人殉教者』をあらわす表現を入れること
 ・『カトリック美濃加茂教会』との表記を入れること

・・・で、出来あがったのが下の「2」の案です。
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26聖人を小さな印章に表現するのは困難なので、26個の★印で表しました。
・・・実際の教会は、小さな敷地に目いっぱいの感じで建てられているのですが、高台にあるということで「丘の上の教会」のイメージで作成。

作成に携わってくれた私の大学時代の同級生『リーフ・デザイン』代表取締役の安井氏に感謝♪
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by dscorp-japan | 2010-02-22 15:14 | キリスト教 | Comments(4)

主教按手式・就任式

私自身は葬儀担当のため伺えなかったのですが。。。

今日(2月11日)、日本聖公会中部教区主教座聖堂名古屋聖マタイ教会において、主教被選者渋澤一郎司祭の主教按手式・就任式が行われました。
主教というのは、日本聖公会における各教区の「長」ということになりましょう。
このたび、前任者の森主教先生が退任なさるにあたり、渋沢主教先生がその任に就かれたということです。
ウチの従業員の一人がお招きに与り、参加させていただきました(有難うございます)。
日本聖公会の各教区主教様のみならず、我がカトリック名古屋教区から野村司教様も参加されました。
そして日本基督教団、日本バプテスト教会、その他多くのキリスト教会の代表者が参列なさったということで、大変に厳かな式だったと報告を受けております。

私はカトリックなので、聖公会のことを詳細に理解しているわけではありません。
しかし、カトリックに照らし合わせてみれば、新司教様が叙階されたということと同義かと思います。

大変におめでたいことです。
心よりお祝い申し上げますm(_ _)m

そして、日本聖公会中部教区の益々のご発展と、神様の豊かな恵みが注がれますようにとお祈り申し上げます。
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by dscorp-japan | 2010-02-11 22:41 | キリスト教 | Comments(0)

私がなぜカトリックなのか。

私の場合、父方が代々続くカトリックの家系でして、私が生まれて間もなく(私の意思など関係なく)洗礼を受けさせられました(これを『幼児洗礼』といいます)。
ところが洗礼を授けておきながら、私の両親は私を一向に教会へ連れていくことがありませんでした。
つまり、私の両親はそれほど熱心な信者ではなかったということです。
自分がカトリックで『ペトロ』という洗礼名であることは知っていましたが、その他のことは何も知らないし何もしていませんでした。

ときは流れ、私が高校二年生の頃。
いろいろと考えるところがありまして、この頃学校帰りに毎日のように本屋に入り浸って、宗教書や哲学書を読み漁っておりました。
色々な考え方を、若いなりに吸収したかったということです。

仏教とは何ぞや?
イスラムって何?
キリスト教はなんでこんなに血塗られた歴史なの?

で、結局自分で出した結論が「カトリックに決めた」でした。

私の潜在意識の中に、元々の自分の宗教を擁護する意識があったのかどうかは分かりません。
でもとにかく、この頃から本当の意味でのカトリック信者になった、と自覚しています。

人間にとって宗教は必要なのか、私は分かりません。
ただ私にとっては必要だったということだと思います。
もっと言えば、自分にとってはカトリックが『都合が良い』ということなのかもしれません。
或いは単純に「好き」というだけかもしれません。

・・・ひとつだけ言えることは、私の中にある『原罪意識』を救ってくれるのがカトリックである、ということだけは間違いありません。
幼い頃から常に(自分は悪い子)(自分は罪深い人間だ)という意識が強かったので(恥)

(。。。おいオレ!成長過程で何かあったのか?。。。)

だから、私にとってのカトリックの価値は『赦し』なんです。。。
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by dscorp-japan | 2010-02-11 21:38 | キリスト教 | Comments(0)

『前夜式』

キリスト教、特にプロテスタント諸教会では通夜のことを『前夜式』といいます。

で、今日は名古屋市東区にある『日本基督教団・金城教会』で『前夜式』を担当してまいりました。
故人は金城学院高校の要職に就いていらっしゃった方ということで、大変に多くの方が参列されました。
実数で500名近く(驚)
献花の列は延々と続き、教会の施設内は満員電車状態でした。

前夜式が終わった後、ご遺族代表の方(仏式でいうところの喪主様)と私、お互いに疲れた顔でお話をさせていただきました。

「なんだか父が亡くなったという実感が湧きませんでした」
「亡くなったというより、旅立ちの前夜というか」

・・・ご遺族がこのように感じられたこと、とてもよく分かります。
キリスト教のお葬式は、拍子抜けするくらいに明るい。
というか、暗くない。

無論、ご遺族のお悲しみは計り知れないものと思います。
しかし『永遠の命』を信じるキリスト教は、故人との別れを『永遠の別れ』とは考えません。

「いつかまた」
「しばしのお別れ」

そしていつの日か、私たちも“かの地”へ赴いたその時には再会しましょう、と。
そういった意味では、まさに「旅立ちの前夜」でありました。

「明日はいよいよ、父の乗った電車が出発するのですね」

・・・私も一緒に、ホームで手を振りたいと思います。
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by dscorp-japan | 2010-02-10 22:51 | キリスト教 | Comments(0)

西 経一『西の風』

私の畏友(失礼ですか?彼も私のことをそう呼ぶので)・西 経一。
名古屋市昭和区にあるミッション系の学校『南山中・高等部・男子部・女子部』の校長先生であり、またカトリックの修道会『神言会』の司祭(神父)です。
だから彼は、教会の世界では「西神父様」と呼ばれ、教育界では「西先生」と呼ばれます。

西神父様とはもう20年のお付き合いになります。

はじめてお会いしたときの印象は。。。
(なァんじゃぁ~この男は!)
でした(汗)

話し方はガサツだし、無駄に声がデカイ。
顔はクドイし、手がやたらデカイ。
本人いわく
「やぁっぱオレってハンサムだよなぁ♪」

アホですわ。。。(いや、失敬)

しかし、長きにわたってお付き合いさせていただくうちに、色々と学ばせていただけます。
物事の考え方、捉え方が非常に鋭い。
そして、やはり彼の根底にある「人を慈しむ」という、ブレない理念。

ここでは、彼が学校で生徒たちに定期的に発信している文章をまとめたサイトをご紹介します。
   ↓
『南山高等中学校女子部』
(このHPの左側にある『西の風』及び『バックナンバー』というタグからご覧ください)

生徒たちに向けた文章でも、私たち大人にとってもとても良い話があります。
一度ご覧ください。
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by dscorp-japan | 2010-02-06 01:09 | キリスト教 | Comments(0)

『野村クン』



上の絵は、もう20年以上前に描いたものを動かしているものです。
現在『カトリック名古屋教区』の公式HPで使用されています。

『カトリック名古屋教区』


そして、20年以上前に描いた原画イラストがこれ

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何故か知らないが当時この絵が評判を呼びまして(照)、なんかいろんなところで使われるようになりました。
更にこの子、知らないうちに“一人歩き”し始めまして。

「この絵のモデルは誰?」

「カトリック名古屋教区長・アウグスティノ・野村純一司教様じゃないの?」

「そうだ、野村司教様によく似てる♪」


・・・実はモデルなんかいないんです・・・。

元々この絵、カトリック司祭養成を願う教会内のグループ(「一粒会」といいます)からポスター作成の依頼を受けて描いたものです。
子どもが神父様に憧れるイメージを簡潔に表しただけのもの。
それがまァどういうわけか、いつしかこの子『野村クン』などと呼ばれるようになっちゃった(汗)
当の野村司教様、あんまり良い気はしないんじゃないかなぁ・・・。
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by dscorp-japan | 2010-02-01 23:28 | キリスト教 | Comments(4)

『ロザリオ』

今じゃファッション・アイテムのひとつとなっている『ロザリオ』。
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上の写真は私の持っているロザリオのひとつです。

そもそもロザリオというのは、仏教でいうところの『数珠』のようなものです。
また、ロザリオを使用する宗教は基本的にカトリックだけです。
所謂『数珠』のように連なった『珠』は、ひとつひとつの祈りを意味します。
ローマ・カトリック教会には『ロザリオの祈り』というのがあって、これは聖母マリアの取り次ぎを願うものでして、祈る者はロザリオの珠のひとつひとつを手で繰りながら祈ります。
だからその数も基本的には決まっているんです。
ところが巷に流布するロザリオは、珠の数も配列もムチャクチャですわ。
十字架さえ付いていれば「はい、ロザリオの出来上がり~♪」ってなもんで。

巷でいわれるロザリオなんてのは、「十字架がついたネックレス」といったものですが、本来ロザリオは首にかけるものではありません。
手に持つものです。
恐らくは今から20年以上も前ですが、アメリカの歌手であるマドンナ(これまた『聖母マリア』を意味する名前です)がロザリオを首にかけて歌い踊ったことが、今の誤解の発端となっているのではと思います。
よく日本の映画なんかで、神父役の人間が首からロザリオをかけているのを見ますが、本物の神父はロザリオを首なんかにゃかけましぇ~ん。

つまり、今や『ロザリオ』の定義は二つあると解釈した方がよろしいかと思います。
①カトリック信徒が持つ、祈りのための道具
②十字架のついたネックレス状のファッションアイテム(①とは根本的に違うもの)

因みに歌手のマドンナさん、家は厳格なカトリックの家庭なんだそうな。。。

なぁんやそれ!

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by dscorp-japan | 2010-01-28 14:02 | キリスト教 | Comments(2)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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