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カテゴリ:キリスト教( 212 )

遅まきながら

 
タイトルにありますように
キリスト教における最大の祝日である復活祭(イースター)は
今年4月1日に迎えました。

ということで
皆さま、主のご復活おめでとうございます ♪

よく
キリスト教は「愛の宗教」といわれます。
と同時に
キリスト教は「復活の宗教」でもあります。
「救い主イエス・キリストの復活」はキリスト教の根源的な教義であり
イエス・キリストの復活なくして、キリスト教は成立しないのであります。
これが
復活祭(イースター)が、キリスト教最大の祝日である所以であります。

私たちの罪を、イエス・キリストが私たちに代わって贖(あがな)って下さったことによる救いの御業
つまり「イエス・キリストの、十字架上での死と復活」があったからこそ、イエス・キリストは私たち人類の「救い主」であると信じられているわけです。


・・・私なんぞはド不良信者なわけですが (^^ゞ
それこそ、毎日を神への感謝のうちに過ごされていらっしゃる方々は
この復活祭(イースター)を迎えるまでの約40日間(厳密には46日間)である四旬節(受難節)を、イエス・キリストの受難に思いを馳せながら慎ましく生活されていらっしゃったに違いないのであります。
そのような方々にとって復活祭(イースター)を迎えることは
本当に、心の底からの大きな喜びなのです。

・・・オマエがエラそうなこと言うな!って話ですが・・・<(_ _)>


それでも
ダメダメ信者であるこんな私でも
(あぁ、今年も何とかこの日を迎えられたのだなァ)と、感慨にふけるものではあります。

毎年、桜の季節を迎えられる喜びと同じように
キリスト教を信じる私たちにとって
復活祭(イースター)とは、救い主イエス・キリストの救いの御業に賛美と感謝する日であるとともに、教会典礼の最大の祝日を「今年もまた迎えることができた」という喜びを味わう日でもあるのです・・・





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by dscorp-japan | 2018-04-02 18:22 | キリスト教 | Comments(6)

聖週間(受難週・聖週)なのです

 
・・・名古屋エリア
一気に桜の花が咲き始めました。


キリスト教会では
昨日の『枝の主日(棕櫚の主日・聖枝祭)』からの一週間を指す『聖週間(受難週・聖週)』に入りました。
つまり
次の日曜日の『復活祭(イースター)』まで、キリスト教会にとって最も重要な一週間を迎えるわけであります。

・・・もう毎年申し上げていることですが
キリスト教専門葬儀屋さんである私たちにとって、この一週間は最も神経を使う期間であります。
多くの教会において
特にこの時期は多くの典礼上の行事が行われるわけでして、この期間中にでお葬式のご依頼が入ると、日程調整に細心の注意を払う必要があるわけです。

式場となる、教会の行事予定。
司式される神父様(牧師先生)のご予定。
これらに火葬場の空き状況を照らし合わせて
もちろん、ご遺族のご希望も充分に加味させていただいたうえで
何とかしてお葬式の日程を探ってゆくプロセスが大切になります。

とはいえ
これらすべての事情を照らし合わせていく以上、どうしてもご遺族様のご希望に添えない日程とならざるを得ないケースも少なくありません。
ですから
ホンネで申しますと、特にこの時期だけは(お葬式のご依頼がありませんように!)と切に願うばかりなのであります・・・






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by dscorp-japan | 2018-03-26 00:56 | キリスト教 | Comments(6)

私にはできない

 
今日は全国的に冷え込んでおりますが
こんなに寒くても「春分の日」なんですね~


さて。
今日、カトリック名古屋教区では
司祭職(神父様)や修道者(ブラザーやシスター)の皆様など、その生涯をカトリック教会のために奉げられた方々のなかで、奉献生活50周年(=金祝)或いは25周年(=銀祝)を迎えられた方々を祝うミサが行われました。


・・・誤解を恐れずに正直に申します。
私は
カトリック教会に限らず「教会のためにその生涯を捧げる」方々のことを “ 変人 ” じゃねェかと思っております(笑汗)

だって、考えられないですもん。
基本的に「年中無休」「24時間営業」。
そのくせ
(カトリックの場合)好きな人がいても結婚できない。
自分の為に大金を稼ぐ経済活動もできない。
自分がヘロヘロに落ち込んでいようと
教会信者の皆様から「助けて」と請われれば応えなきゃいけない。
たとえばお葬式の場面においても
神父様が高熱でフラフラな状態にもかかわらず、亡くなられた方とそのご家族のために、一生懸命お葬式の司式をされるお姿を何度も拝見しております。
(無理することないのに)
(誰か代打を頼めばいいのに)
って思います。
でも神父様たちは
余程のことが無い限り「体調が悪いからパス!」とは仰らないんです。

そういう条件を分かったうえで
「私、やります」って、言えますか?
少なくとも私には言えません。
なんていうか
言葉は悪いですけれど「一生を棒に振る」感じさえしませんか?


・・・そうなんです。
私たちからみれば「一生を棒に振る」ような選択が
彼ら彼女らにしてみれば、その生涯を「神様に奉げる」ということなんですよね。
もうね
私なんぞからしてみれば、その選択を決意されたというだけで尊敬に値することだと思うんですよ。

そして
そんな奉献生活を25年、更には50年の長きに亘り継続されてこられたのです。
今日、金祝や銀祝を迎えられた方々を祝うことはもちろんですが
それ以上に私たち信徒は、心からの敬意と感謝の念をもたなくてはならないと思うのです。





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by dscorp-japan | 2018-03-21 16:46 | キリスト教 | Comments(4)

「裁くな、裁かれない為に」

 
・・・表題は
新約聖書『マタイによる福音書・7章1節』の言葉です。

現在の『新共同訳聖書』ですと
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」
という訳ですが
私個人的には、若い頃に読んだ聖書の訳(前田訳)にあった
「裁くな、裁かれない為に。」という表現がシンプルで好きです。

            ♢

・・・さて
一年を締めくくる記事に「聖書」ってのも私らしくないなァと思うのですが (^^ゞ


特にここ数年ネット上で
罪を犯した人に対して、或いは罪には問われなくとも倫理上よろしくないとされる言動をした人に対するバッシングというか、言葉による攻撃が凄まじくなった気がいたします。

「是は是、非は非」
「勧善懲悪」
もちろんその通りなのであって
悪い行いを見過ごすのは、それはそれで問題です。

でも
「新聞や週刊誌が誰かの悪事を記事にして
それがネット上でも拡散されて
ネットニュースを見た人々が一斉にバッシングを繰り広げる」

・・・私は、この構図に慄然としてしまうんです。
それはまるで、ポンティオ・ピラトの前でイエスを死刑にするよう声をあげた、かつての民衆たちのようではないでしょうか。


「エラそうなこと言いやがって!
そういうオマエこそ、上から目線でモノを言うな!」

・・・いや、むしろその逆なんです。
私は決して褒められた人生を送ってきたわけではありません。
ここでは明かしませんが
仮に私の行いのすべてがネット上で拡散されたなら、間違いなく私もまた、ネット上でバッシングの嵐に晒される側の人間なんです。


『マタイによる福音書』7章の続きは、こう書かれています。

「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ
自分の量る秤で量り与えられる。」(2節)



どうか新しい年には
人々の思いが「怒り」にばかり支配されるのではなく
悪い行いをしてしまった人に対しても、ほんの少しの思いやりをもって
その人が更生する余地を残してくれるような
そんな社会になりますようにと願うばかりです。

「許さ」なくてもいい。
せめて「赦す」。

そして
少なくとも私自身、他者に対してそういう人間でありたいと思います。





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by dscorp-japan | 2017-12-31 00:00 | キリスト教 | Comments(4)

「雨のクリスマス」

 
あらためまして
皆様、主の御降誕おめでとうございます。
救い主イエス・キリストがお生まれになったこの日
世界中のすべての人の上に、神様の恵みと慈しみが豊かに注がれますように。

            ♢

・・・なんだかムード歌謡曲みたいなタイトルですが・・・


クリスマス・イヴの名古屋エリア
昨日は、夕刻から日没を待っていたかのように雨が降り出しました。
それも大雨と言っていいレベルの、かなり激しい雨量で。

(雨かァ・・・今年はサボっちまうか?)
と、直前までかなり本気で悩んでいたわけですが・・・

キリスト教徒の哀しい性と申しますか
結局、半ば惰性のように教会までクルマを走らせてしまったわけです (^^ゞ

私の所属するカトリック布池教会では
毎年12月24日の夜には、午後8時・午後10時・深夜0時と、計3回のミサがあるわけですが、当然ながら、午後8時からのミサが最も参列者の多いミサとなります。
カトリック信徒にとって、このミサは「司教ミサ」でもありますし
一般の方々にとっても、足が向きやすい時間であるということでしょう。
一方で(多くの教会がそうなのですが)駐車場が殆どありません。
特にこの日は近隣のコインパーキングもすぐに満車になります。

ということで、毎年早めに教会に着くようにしているのですが
今年はすでにどこも満車でした。
雨ということもあったのでしょうが
例年になく、早くからのクルマでの参列者が多かったようです。

それでも何とか駐車場を見つけて教会に行きますと
すでに教会聖堂の会衆席(裕に500名以上座れます)は満席で、立ち見の方も大勢いらっしゃる。
でもそれはそれで想定内だったのですが、問題は「傘」。
これだけの多くの参列者が持つ「傘」の置き場所がない。
傘立てはありますが、すぐにいっぱいになるので
傘袋を用意して、信徒の方が聖堂入り口で傘袋を用意して配っていらっしゃったんですね。

(こりゃ大変だわァ)と、他人事のように眺めていたら・・・

「オカダ君(=私)助けて!」

と、教会の案内係を務める信者さんからSOSが。
聞けば「傘袋が全然足りない」とのこと。
正確には
「今はまだあるけれど、このペースだと間違いなく足りなくなる」ということ。

つまり
私の会社にある、お葬式で使用する傘袋スタンドを貸して欲しいというわけです。

「お願い、出来れば今すぐ貸して!」

・・・私、会社に取りに戻りましたよ。
苦労してようやく駐車場を見つけたのに、早々に駐車場を放棄して。

急いで傘袋スタンド二台を持って教会へ戻って、あとはもう延々と傘袋渡しのお手伝いと、雨で濡れた聖堂入り口のモップ拭き ^^;

あっという間に、深夜0時過ぎまでお手伝いで終わっちゃった・・・

主任神父様は神父様で
「これ(=傘袋スタンド)良いなァ。このまま教会に置き忘れていってもらって良いよ」

・・・って、おい!

結局この傘袋スタンド
ウチがお葬式で使用するとき以外は、教会に “ 無期限貸し出し ” ということに(笑)

お手伝いスタッフの信者さんたち曰く
「オカダ君、きっと神様の恵みがたくさんあるわよ!」

・・・ホンマかいな ^^;





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by dscorp-japan | 2017-12-25 13:14 | キリスト教 | Comments(2)

ミサ中のスマホ使用について

 
先日
ローマ教皇:フランシスコが苦言を呈したそうです。

『スマホを置きなさい=ミサ中も撮影、司教ら叱る』


・・・当然と言えば当然なのです。
パパ様も仰ったとおり、ミサはショーではありません。
端的に申しますなら
「祈りにスマホは要らないでしょう」ということですね。

じゃ、私はミサ中に撮影したことが無いかと問われれば・・・
ごめんなさい、あります m(_ _)m
何のための撮影だったかと問われれば
他でもありません、このブログ記事のために撮影しました・・・

私もまた
間接的にパパ様に叱られたということになります。
大いに反省しております。
もう二度といたしません m(_ _)m






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by dscorp-japan | 2017-11-12 14:34 | キリスト教 | Comments(7)

都合よく解釈しちゃえ(笑)

 
→ ネタ元のニュースはコチラ


「祈る間、実は居眠り」って
それを何と、ローマ教皇フランシスコご自身が告白した、というのです。

・・・へぇ~
寝ても良いんだぁ~ ♪

そもそも私は超ド級の不良信者ですから
自分の勝手な都合でしか祈ることなんてございません。
お願い事があるときとか
自分がちょっとへヴィな状況に陥ったときとか
そんなときしか祈ったりしません。

たまに祈るときだって
大体がベッドの中で眠りに就く前とかなわけで
そりゃ~ね、寝る体制で祈るなんて、ものの数分で “ 落ちる ” わけですよ。
気付いたら翌朝ですし。

・・・さすがにパパ様も
私のような状況を指して是認していらっしゃるわけではないと思うのですが・・・

            ♢

その昔
私の畏友:西経一神父様はこんなことを仰いました。

「日曜の朝、教会のミサに来ている信徒たちを見ると
結構 “ 舟をこいでる ” 人がいるんだよ。
でもオレはそれを微笑ましく思う。
貴重な休日に
疲れた身体に鞭打って、眠い目をこすり
わざわざ教会まで足を運んでミサに与るんだぞ。
オレは
そうやって身体と時間を割いて『教会に来る』という行為自体が尊いと思うんだ。
その行為こそが『祈り』なんだよ」


・・・私の勝手な解釈ですが
もしかするとパパ様もまた、私たちに同じようなことを問いかけて下さっているのではないのかなぁと思ったりするんです。
祈ること自体よりも
(祈ろう)と考え、これを行動に移すことこそが尊いのだと仰っているような気がするんです。


>キリスト教徒は父親の腕に抱かれた子供のような心境に達することが求められると説明し
>居眠りしやすい状況にあると示唆した。


・・・お叱りを受けるかもしれませんが
私には、それって後付けの言い訳っぽく聞こえてしまうわけで
ホントは「祈る行為に睡魔は付き物でっせ!」って仰ってる気がしたりします ^^;

でも
「それでもいいんだよ。
眠くなっても、寝てしまってもいい。
それでもいいから祈りなさい」
と仰っているように私には受け取れたんですが・・・


・・・どうなんでしょ。
私の身勝手な解釈なんでしょうかね・・・(^^ゞ






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by dscorp-japan | 2017-11-02 15:38 | キリスト教 | Comments(6)

現代カトリックは “ 異端 ” なのか

 
→ ネタ元のニュース記事はコチラ


まず
私は、第二バチカン公会議(1962~1965年)の真っ最中に生まれた人間です。
カトリック教会の大転換期を迎えたときに生を受けた人間ということです。
「それがどうした」ということでもないのですが
つまり私は、第二バチカン以前のカトリック教会を肌で知る人間ではないということです。
だから、というわけではありませんが
私が高校生の頃、第二バチカン公会議に対する肯定派と否定派それぞれの考え方や根拠について、私なりに薄っぺらくも勉強したつもりではあります。
そのうえで
私は私自身の考え方に基づいて、肯定派・否定派それぞれの良いところと思われる部分を取り入れて、自分の信仰を構築しているつもりです。


・・・私は思うんです。
キリスト教に限らず、ですが
宗教の現実的な役割って「人間の救済」であるはずじゃないですか。

「十戒を守れ」
「聖書に従え」
もちろん正論です。
でも
じゃ、それらの教えを完全に遵守出来ている人間がどれだけいるんでしょう。
少なくとも、私はまったくダメです。
保守派の方々からすれば、私などとっくに「破門」なのです。

イエス様がこの世に生を受けて
十字架に架けられたのは、罪人を「切り捨てる」為ではなかったはずです。
でなければ「罪の贖い」という考え方自体が否定されてしまうような気がします。

「離婚や再婚はダメ」
LGBTは容認できない」

でも実態として
それらの方々だって、ミサに与っていらっしゃるわけじゃないですか。
人には言えない苦しみや悩みを抱えて
神に依りすがろうとしてるわけじゃないですか。
それが
現代を生きる私たちそのものなわけじゃないですか。


異端かどうかなんて、この際どうでもいい。
大切なことは
「私たちは皆、罪人です」という自覚なんじゃないでしょうか。

「不完全な私」
「罪を犯し続ける私」
それを自覚したうえで、私たちは神に依りすがるのだと思うんです。

キリストの代弁者としての教皇フランシスコは
不完全で罪深い私たちを「切り捨てない」ために、さまざまな救いの手を差しのべて下さっているのだと思います。

罪を容認するのではもちろんなく
罪深い自分を自覚してなお、神に依りすがろうとする私たちにこそ目を向けて下さっているのだと。

イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコによる福音書:2章17節)






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by dscorp-japan | 2017-09-28 16:00 | キリスト教 | Comments(6)

百歳の洗礼式

 
今日、お手伝いを終えたお葬式
お亡くなりになられたのは、御年104歳の女性の方でした。


元々ご本人はクリスチャンではなかったのですが
その方が幼少の頃(つまり約100年近く前)、当時お住まいだった(現在の)長崎県五島市
で、何があるでもなく教会に行っていらっしゃったそうです。
何もわからないまま、ただ「主の祈り」を唱えていらっしゃったそうです。
それでも
カトリックの洗礼は受けないまま名古屋の地に移り住み
ライフワークとして短歌を詠まれ、地域紙では短歌の選者としてその才を発揮されていらっしゃったということです。

時は移って今から四年前
ご本人が100歳を迎えたとき、ご本人が「カトリックの洗礼を受けたい」ということで、ご自宅に程近い教会で洗礼を受けられました。
私の手元に洗礼式の写真があるのですが
ご本人は車椅子に座りながらも、喜びにあふれた表情で写っていらっしゃいます。


・・・凄いなァと思うんです。

おそらく幼少の頃の思いを
約100年もの間ずっと、胸に秘め続けて
ご自身が100歳を迎えたときに受洗の意思を示されたのです。

そして
ご本人はそのときの思いを謳っていらっしゃいました。

『受洗して 清められたり 我が胸も』

『一日を 神につかへし 心豊か』

『神父様に 握手いただき 胸ふるえ』

『教会の 祭壇麗し 天国か』


これを受けて
洗礼を授けられた神父様が返歌されました。

『百歳で 神の子になり 目に涙』

『百歳を 生きてなおかつ 神求め』

『神様の 秘めた計らい 今気づき』

『人生は 神の国への 一里塚』


・・・ただただ
神様の計らいに思いを馳せる思いでした。





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by dscorp-japan | 2017-09-11 16:21 | キリスト教 | Comments(4)

ローマ教皇庁の掲げる指針について思う:追記

 
8月21日の記事について
私の永年の友人である牧政さんより、貴重なご指摘をいただきました。

結論から申しますと
昨年にローマ教皇庁が発表した、火葬・埋葬に関する指針を受けて
日本のカトリック司教団は、日本における葬送文化の実態を考慮して、本指針の『日本の教会への適応』について定めたのだそうです。

情報ソースのリンクを貼っておきますので、ご一読ください。

教皇庁教理省、死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針

教皇庁教理省『死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針』の
  日本の教会での適応について

上記にある通り
ローマ教皇庁の打ち出した指針について
日本のカトリック教会は、独自のガイドラインを設けたということです。



キリスト教専門の葬儀屋さんとして
先日の記事掲載は甚だ軽率でありました。
細かい裏付けも確認せずに記事掲載してしまい
無用なご心配をおかけいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます。







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by dscorp-japan | 2017-08-26 23:02 | キリスト教 | Comments(4)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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