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D’s(ディーズ)さんのぶろぐ

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カテゴリ:キリスト教( 218 )

今日は『5月13日』です

 
 → 5月13日に関する過去記事


・・・毎年、今日という日は
個人的に思い入れの深い日であります。

今から40年近く前、私がまだ高校生だった頃
ひょんなことから『ファティマの聖母の祝日』について知るに及び、これをきっかけのひとつとして自ら教会に行ってミサに与るようになったという
私にとっては、いわゆる「神との出会い」の記念であります。

あの頃の私は、今よりも少しだけ純粋だったような気がします。

(オレは教会へ行くべきだ!)
(ミサに与ろう!)
(マリア様が待っている!)← ホンマかいな

そんな思いに突き動かされるように
錆び付いた自転車を引っ張り出し
何の準備もなく、ただ教会へとペダルを漕いだ日から、約40年。


毎年、今日を迎えるたびに思うのです。

(オレはこれまでよりも良い人間になれただろうか)
(少しでも罪を遠ざけることが出来ただろうか)

・・・そして毎年、自己嫌悪に陥るのですが(笑汗)

私にとってはそんな大切な日なのですが
では何か特別なことをするのかと申しますと・・・特に何もしない(笑汗)

今朝も惰眠をむさぼっていたところへ
とある教会の信者さんからご葬儀のご依頼をいただき
葬儀屋さんとしての日常を、淡々と過ごしているのみであります。


・・・とはいえ
約40年前のあの日、抗い難い衝動に駆られて教会の門をくぐらなければ
おそらくキリスト教葬儀屋さんとしての私もいなければ、ウチの会社も無かったわけです。
そう考えると
今、こうしてご葬儀のお手伝いをさせていただいている自分の
存在意義の源泉もまた「5月13日」という今日にあるのかもしれません。

・・・であるなら。
今、私のすべきことはやはり
「目の前のお仕事に精一杯の誠意を持って取り組むこと」
ということになるのではないかと思うのであります。





by dscorp-japan | 2019-05-13 15:46 | キリスト教 | Comments(4)

おめでとうございます ♪

 
イースター(復活祭)です。

皆様
主のご復活、おめでとうございます!


キリスト教が「復活の宗教」と言われる所以からも
木曜日からの『聖なる過越の三日間』の典礼を経て、今日のミサを迎えられたことを以て、カトリック教会がカトリック教会たる証しであります。
であるがゆえに
カトリック教会に限らず、キリスト教の最も大切な祝日はクリスマスではなく、イースター(復活祭)であると言われるわけです。

放っておいても、一年間はぐるりと一周して巡ってきます。
春には桜が咲きほこるように
秋には木々の葉が色付くように
復活祭もまた、毎年やってきます。
しかし
この世に生き長らえながらこの日を迎えられることは、実は決して当たり前ではないということ。
そして
毎年この日を迎えられることで
神と自分との関わり方や生き方を見つめ直し
改められるところは改め
更新すべきことは更新する。
そういう機会が与えられたことに感謝すべき日なのだと、私は思っております。


・・・などとキレイ事を申しておりますが (^^ゞ
私なんぞはもう、どこをどう改めたらよいものやら分からないほどですので
結局神様には一言、これだけお願いするわけです。

(そんなわけで、またいろいろよろしくッ)

            ♢

ただひとつ
今朝、カトリック布池教会に行って聖堂を見上げた時
(ノートルダムの信者の皆様は、今日の日をどのような思いで迎えているんだろう)
ということ。

a0153243_14084645.jpg
今朝のカトリック布池教会


祈る場所があることも、当たり前などではない。
こうして眠い目をこすって
面倒臭がりつつもミサに与ることのできる教会があるということに、やはり感謝しなくてはならないのだなと、あらためて痛感したのでありました。






by dscorp-japan | 2019-04-21 14:39 | キリスト教 | Comments(4)

希望

 
仏教を信仰する方にとっての「お寺」
神道を信仰する方にとっての「神社」
キリスト教を信仰する方にとっての「教会」
イスラム教を信仰する方にとっての「モスク」

宗教は違えど
信者にとって祈りの場所としての宗教施設とは、第二の「家」のようなものなのではないでしょうか。
信仰心の深浅などは関係なくて
たとえ普段は滅多に足を運ばない場所だったとしても
理屈抜きで、ただその場所に行けば「何となく心が落ち着く」。
信者にとっての宗教施設とは、そういう場所なのだと思います。
キリスト教会の場合
よく、礼拝堂(聖堂)は「神の家」と言われますが
それと同時に「信者たちの家」でもあると思うわけです。


すでに皆様もご周知の通り
4月15日、ノートルダム寺院が火災によって甚大な被害を受けました。
現地の信者の皆様にとって
あの出来事はさながら、我が家が火事で焼け落ちる様を見る思いだったのではないでしょうか。
途方に暮れる思いは、私たちには計り知ることのできないものだと思います。

            ♢

このところ私は本業のお葬式が多忙の為
このニュースも少し経ってから知った次第なのですが
テレビやネットで流れるニュース映像のなかにあった、ひとつの写真に目が留まりました。

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焼け落ちた聖堂に残った十字架とピエタ像


この映像をみて私の脳裏に浮かんだのは
『絶えざる御助けの聖母』のイコン画でありました。
(詳しくはレデンプトール修道会のサイトをご覧ください)

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私は不勉強でいい加減な信者なので詳しくはないのですが
若い頃、このイコン画を知った際に教えられた、聖母マリアに抱かれた幼いイエスの足にぶら下がっているサンダルの意味には、深く感銘を覚えたものでした。
今にも落ちてしまいそうなサンダルが
たった一本の紐で、かろうじて落ちないで留まっています。
「この、たった一本の紐こそが私たちの信仰そのものである」
「この細い紐こそが、私たちの希望なのである」

キェルケゴールによる著書『死に至る病』にある
「死に至る病とは絶望である」という言葉。
「絶望」こそが死に至る病だとすれば
幼子イエスのサンダルの紐こそが、絶望から私たちを救って下さる唯一の「希望」という言い方が出来るのではないかと。


ノートルダム寺院の焼け落ちた聖堂内に残る十字架とピエタ像を見て
私はそこに、絶えざる御助けの聖母の、幼子イエスのサンダルの紐を見たような気がしたのです。

「失望はしても、絶望してはいけない」
凛として立つ十字架と、瓦礫に囲まれたピエタ像は
私たちに、そんな風に語りかけているような気がするのです・・・









by dscorp-japan | 2019-04-18 15:51 | キリスト教 | Comments(4)

神を確信する人たち

 
かなり前のことになりますが
南米のとある国の方が、交通事故でお亡くなりになり
その方のお葬式を担当させていただいたことがあります。
ここで事故の詳細を明らかにすることは控えさせていただきますが
自動車対歩行者という事故でした。
お亡くなりになられた方に何らの非はなく、完全に被害者でありました。

憔悴されるご家族の皆様との打ち合わせは
それはそれは大変なものでした。

それでも何とかお通夜を迎えることになったのですが
そのお通夜が始まるかなり前の時間に、加害者の関係者が参列に訪れました。
(おそらく加害者本人は警察に拘束されていたものと思われます)
実際には「参列」というよりも「謝罪」の意味で来られたのでしょう。

私は当事者ではありませんので
加害者の関係者の方と被害者のご遺族とのやり取りには加わっておりません。
ただそれでも
ご遺族の前で加害者の関係者が土下座してお詫びする姿が
そこで交わされた会話などが目と耳に入りました。

・・・そこで、ご遺族が通訳を通して語られた言葉に
私は大いに驚かされたのでした・・・

「運転手さんは、やろうと思ってやったのではないですよね?」
「運転手さんは反省しているんですよね?」
「ならばどうか、一生懸命神様にお祈りしてください」

そして最後に、たしかにこう仰ったのです。

「神様が(運転手さんを)許すのなら、私たちも許します」


・・・私には到底言えない言葉だと思いました。
正直(そんなんでいいの!?)と思いました。

私もまた一応、カトリック信者ではあります。
ご遺族の仰ることも分からなくはありません。
でもそれって、あくまでもキリスト教的な “ 理屈 ” なのであって
大切な家族を突然喪ってしまったご遺族の思いは、そんなもんじゃ癒されないでしょうに、と。

なのに、亡くなられた方のお母様は
土下座する加害者の関係者の肩を手でさするんです。

凄いなァと思いました・・・

私たちは
自分を赦すことはたやすくできます。
でも
他者を赦すことが、どれだけ難しいことか。
「たとえ神が赦そうとも私は決して赦さない」
というのが、私たちの本音なのではないでしょうか。


あのとき私は思ったんです。
きっと、あのお母様は
神を信じるのみならず、神を「確信」していらっしゃるのだなぁ、と・・・







by dscorp-japan | 2019-02-10 18:25 | キリスト教 | Comments(2)

すでに遅いのでありますが

 
・・・遅まきながら、でございます。

皆様
主の御降誕、おめでとうございます♪


このブログもサボり癖がついて久しいわけですが
今月に限って申しますと
本当に多忙な日々の為、ゆっくりとパソコンを開いてる時間も惜しいほどだったのであります。
今日こうして久々に自分のブログサイトを開いている今も
ウチの社員はお葬式の現場でお手伝いをさせていただいている最中であります。
そこにきて
私自身も風邪をこじらせておりまして、やや意識朦朧といった感じです (^^ゞ

そんなわけで今日は
以前、私の畏友であるK神父様が司祭叙階された際、叙階記念カードの製作を依頼された際に描いた絵を載せて、お茶を濁させていただきマス(笑)


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・・・世界を見渡すと
なにやら不穏な空気感が漂う今日この頃ではありますが・・・

「国家」や「イデオロギー」
「宗教」や「人種」
様々な対立構造に与する前に
今こそ、私たちは「神の前では同じ人間なのだ」という真理をもう一度思い出したいと思います。

どうぞ皆様
良いお年をお迎えください。







by dscorp-japan | 2018-12-26 17:42 | キリスト教 | Comments(4)

神と私「一対一」

 
キリスト教徒の方ならご存知の事と思います。

→ ニュース記事
『 性的虐待対応で法王窮地=大司教が辞任要求、権力闘争か-バチカン 』

まず、聖職者たちによる性的虐待については
当然のことながら、とことん糾弾されるべきことです。
「言い訳無用」「弁解の余地なし」であります。
聖職者がなんぼのもんだろうと、ダメなものはダメ!

ではその次の段階として
教皇庁(ヴァチカン)が長年にわたってこれを隠蔽してきたことについて。
これも当然、糾弾されて然るべきことです。
カトリック教会という「組織を守るため」という大義名分によって
「ああそうなの。
カトリック教会では悪いことをしても、隠し通せればオッケーなのね。
あんたたちの信じる神様は、そう教えてるのね」
と受け取られても文句は言えないでしょう。


私はひとりのカトリック信者ですが
こと「ヴァチカン」という、世界中のカトリック教会を束ねる組織については
(どうせ今でも、いろいろやらかしてたり隠してたりするんでしょ)
と、懐疑的な思いで受け取っている部分があります。
現代社会における、最も巨大な「伏魔殿」じゃないかとさえ思っています。

「そんな怪しい宗教を、オマエは何故信仰するんだ」
・・・そう思われても致し方ないと思います。

ただ
私はその問いに、こう答えます。
「私が信じているのは、ヴァチカンという組織ではない。
救い主イエス・キリストという方だから」
と。

            ♢

私の基本的な考え方として
「神様(つまり父と子と聖霊)と私とは
このうえなくパーソナルな関係性であるべし」
というのがあります。
神様と私は
最終的には、誰の介入もない「一対一」の関係にあるのだと。

もちろん、私の信仰の手助けとなる「聖書」も大切。
さまざまな知見を教えて下さる聖職者の皆さんも大切。
共同体としての「教会」も大切。
祈りの手段としての「ミサ典礼」も大切。
でも、それらすべての助けを受けながら
最終的に私は「私一人で神様と対話する」関係性でありたい。

今の「組織」としてのカトリック教会の有様がどうであろうと
その組織に所属する多くの聖職者の方々がどうあろうと
「そこ」を見て神への信仰を疑うべきではないのだと。
神は間違いなく、その向こう側にいらっしゃるのだと。

            ♢

・・・これはあくまでも個人的な推測なんですが
きっとパパ様(フランシスコ教皇)は、今の「組織」としてのヴァチカンのなかで
様々な手枷足枷でがんじがらめになっていらっしゃるのではないでしょうか。
彼の信仰に基づいた理想を
具現化したくても出来ないというジレンマが、垣間見えるような気がします。

『週刊プレイボーイ』で
モーリー・ロバートソンさんがこんなコラム記事を上梓しています。

            ↓

文中にある
「フランシスコ法王が背負っている"何か"に目を向けず」
という表現が、ヴァチカンという「組織」を暗喩していることは多分間違いないでしょう。
もしかするとパパ様は「ヴァチカンのトップ」という
この上なく大きな、そして重い「十字架」を担ったということなのかもしれません。






by dscorp-japan | 2018-09-12 18:16 | キリスト教 | Comments(4)

遅まきながら

 
タイトルにありますように
キリスト教における最大の祝日である復活祭(イースター)は
今年4月1日に迎えました。

ということで
皆さま、主のご復活おめでとうございます ♪

よく
キリスト教は「愛の宗教」といわれます。
と同時に
キリスト教は「復活の宗教」でもあります。
「救い主イエス・キリストの復活」はキリスト教の根源的な教義であり
イエス・キリストの復活なくして、キリスト教は成立しないのであります。
これが
復活祭(イースター)が、キリスト教最大の祝日である所以であります。

私たちの罪を、イエス・キリストが私たちに代わって贖(あがな)って下さったことによる救いの御業
つまり「イエス・キリストの、十字架上での死と復活」があったからこそ、イエス・キリストは私たち人類の「救い主」であると信じられているわけです。


・・・私なんぞはド不良信者なわけですが (^^ゞ
それこそ、毎日を神への感謝のうちに過ごされていらっしゃる方々は
この復活祭(イースター)を迎えるまでの約40日間(厳密には46日間)である四旬節(受難節)を、イエス・キリストの受難に思いを馳せながら慎ましく生活されていらっしゃったに違いないのであります。
そのような方々にとって復活祭(イースター)を迎えることは
本当に、心の底からの大きな喜びなのです。

・・・オマエがエラそうなこと言うな!って話ですが・・・<(_ _)>


それでも
ダメダメ信者であるこんな私でも
(あぁ、今年も何とかこの日を迎えられたのだなァ)と、感慨にふけるものではあります。

毎年、桜の季節を迎えられる喜びと同じように
キリスト教を信じる私たちにとって
復活祭(イースター)とは、救い主イエス・キリストの救いの御業に賛美と感謝する日であるとともに、教会典礼の最大の祝日を「今年もまた迎えることができた」という喜びを味わう日でもあるのです・・・





by dscorp-japan | 2018-04-02 18:22 | キリスト教 | Comments(6)

聖週間(受難週・聖週)なのです

 
・・・名古屋エリア
一気に桜の花が咲き始めました。


キリスト教会では
昨日の『枝の主日(棕櫚の主日・聖枝祭)』からの一週間を指す『聖週間(受難週・聖週)』に入りました。
つまり
次の日曜日の『復活祭(イースター)』まで、キリスト教会にとって最も重要な一週間を迎えるわけであります。

・・・もう毎年申し上げていることですが
キリスト教専門葬儀屋さんである私たちにとって、この一週間は最も神経を使う期間であります。
多くの教会において
特にこの時期は多くの典礼上の行事が行われるわけでして、この期間中にでお葬式のご依頼が入ると、日程調整に細心の注意を払う必要があるわけです。

式場となる、教会の行事予定。
司式される神父様(牧師先生)のご予定。
これらに火葬場の空き状況を照らし合わせて
もちろん、ご遺族のご希望も充分に加味させていただいたうえで
何とかしてお葬式の日程を探ってゆくプロセスが大切になります。

とはいえ
これらすべての事情を照らし合わせていく以上、どうしてもご遺族様のご希望に添えない日程とならざるを得ないケースも少なくありません。
ですから
ホンネで申しますと、特にこの時期だけは(お葬式のご依頼がありませんように!)と切に願うばかりなのであります・・・






by dscorp-japan | 2018-03-26 00:56 | キリスト教 | Comments(6)

私にはできない

 
今日は全国的に冷え込んでおりますが
こんなに寒くても「春分の日」なんですね~


さて。
今日、カトリック名古屋教区では
司祭職(神父様)や修道者(ブラザーやシスター)の皆様など、その生涯をカトリック教会のために奉げられた方々のなかで、奉献生活50周年(=金祝)或いは25周年(=銀祝)を迎えられた方々を祝うミサが行われました。


・・・誤解を恐れずに正直に申します。
私は
カトリック教会に限らず「教会のためにその生涯を捧げる」方々のことを “ 変人 ” じゃねェかと思っております(笑汗)

だって、考えられないですもん。
基本的に「年中無休」「24時間営業」。
そのくせ
(カトリックの場合)好きな人がいても結婚できない。
自分の為に大金を稼ぐ経済活動もできない。
自分がヘロヘロに落ち込んでいようと
教会信者の皆様から「助けて」と請われれば応えなきゃいけない。
たとえばお葬式の場面においても
神父様が高熱でフラフラな状態にもかかわらず、亡くなられた方とそのご家族のために、一生懸命お葬式の司式をされるお姿を何度も拝見しております。
(無理することないのに)
(誰か代打を頼めばいいのに)
って思います。
でも神父様たちは
余程のことが無い限り「体調が悪いからパス!」とは仰らないんです。

そういう条件を分かったうえで
「私、やります」って、言えますか?
少なくとも私には言えません。
なんていうか
言葉は悪いですけれど「一生を棒に振る」感じさえしませんか?


・・・そうなんです。
私たちからみれば「一生を棒に振る」ような選択が
彼ら彼女らにしてみれば、その生涯を「神様に奉げる」ということなんですよね。
もうね
私なんぞからしてみれば、その選択を決意されたというだけで尊敬に値することだと思うんですよ。

そして
そんな奉献生活を25年、更には50年の長きに亘り継続されてこられたのです。
今日、金祝や銀祝を迎えられた方々を祝うことはもちろんですが
それ以上に私たち信徒は、心からの敬意と感謝の念をもたなくてはならないと思うのです。





by dscorp-japan | 2018-03-21 16:46 | キリスト教 | Comments(4)

「裁くな、裁かれない為に」

 
・・・表題は
新約聖書『マタイによる福音書・7章1節』の言葉です。

現在の『新共同訳聖書』ですと
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」
という訳ですが
私個人的には、若い頃に読んだ聖書の訳(前田訳)にあった
「裁くな、裁かれない為に。」という表現がシンプルで好きです。

            ♢

・・・さて
一年を締めくくる記事に「聖書」ってのも私らしくないなァと思うのですが (^^ゞ


特にここ数年ネット上で
罪を犯した人に対して、或いは罪には問われなくとも倫理上よろしくないとされる言動をした人に対するバッシングというか、言葉による攻撃が凄まじくなった気がいたします。

「是は是、非は非」
「勧善懲悪」
もちろんその通りなのであって
悪い行いを見過ごすのは、それはそれで問題です。

でも
「新聞や週刊誌が誰かの悪事を記事にして
それがネット上でも拡散されて
ネットニュースを見た人々が一斉にバッシングを繰り広げる」

・・・私は、この構図に慄然としてしまうんです。
それはまるで、ポンティオ・ピラトの前でイエスを死刑にするよう声をあげた、かつての民衆たちのようではないでしょうか。


「エラそうなこと言いやがって!
そういうオマエこそ、上から目線でモノを言うな!」

・・・いや、むしろその逆なんです。
私は決して褒められた人生を送ってきたわけではありません。
ここでは明かしませんが
仮に私の行いのすべてがネット上で拡散されたなら、間違いなく私もまた、ネット上でバッシングの嵐に晒される側の人間なんです。


『マタイによる福音書』7章の続きは、こう書かれています。

「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ
自分の量る秤で量り与えられる。」(2節)



どうか新しい年には
人々の思いが「怒り」にばかり支配されるのではなく
悪い行いをしてしまった人に対しても、ほんの少しの思いやりをもって
その人が更生する余地を残してくれるような
そんな社会になりますようにと願うばかりです。

「許さ」なくてもいい。
せめて「赦す」。

そして
少なくとも私自身、他者に対してそういう人間でありたいと思います。





by dscorp-japan | 2017-12-31 00:00 | キリスト教 | Comments(4)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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