皆様
救い主イエス・キリストの御降誕、おめでとうございます ♪
昨晩のカトリック布池教会の様子
(右下に写るのは、駐車整理をするウチのスタッフです)
日々の仕事に忙殺(というほどでもないのですが)されるなか
クリスマスを迎えるという心の準備もままならなくなってきております (^^ゞ
でもやっぱり
教会には行ったほうが良いですね。
何となくクリスマスの実感も湧かないまま教会に向かうも
いざ教会聖堂に入ると、主の御降誕を祝う雰囲気がひしひしと伝わり
(あぁ、今日は主の御降誕を祝う日なのだなぁ)と思い知らされます。
ミサに与りながら
今年はふと、こんなことを考えました。
(キリスト教にも “ 恩赦 ” みたいなものってないかなぁ)
そのように思い至ったのはもちろん
今年、新しい天皇陛下の御即位があり、元号が変わったことが起因するわけですが・・・
私が思ったのは
いわゆる刑法によって裁かれた罪人たちに対するそれ、というわけではなく
特に誰かから裁かれるわけではない、私たちそれぞれの心の中で「罪」と認識する案件に対する “ 恩赦 ” みたいなものって無いかなぁ?ってことです。
ここでも再三申しておりますように
私は人として、社会人として、クリスチャンとして、悪行三昧の人間であります。
「思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」
・・・たびたびどころじゃないのであります。
もちろん、一応反省はします。
反省はするんですけれど「喉元過ぎれば何とやら」で、恥ずかしながら一向に改善されることがありません。
そんな自分を棚に上げて言うのもなんですが・・・
「クリスマス」という、この特別な日に
これまでの私たちの犯してきた罪の数々を “ 恩赦 ” みたく赦してくれないかしら?っていう、ささやかな望みだったりするわけですよ(笑)
♢
今は天国に召された、私の大好きな
由井神父様が『赦しの秘蹟(告解)』の聴罪司祭の当番として告解部屋に入られるとき
神父様はいつもこう仰られておられました。
「ボク、今日 “ ゴミ箱 ” の係なんだよね~」
・・・彼のその表現に、私は何度も心を救われたものでした。
罪を「ゴミ」とたとえて
その「ゴミ」を、聴罪司祭として、秘蹟によって “ 処分 ” するのが自分の役割なのだと。
それはつまり
罪の意識による絶望からの救い、に他ならなかったのだと。
また、私の畏友:西経一神父様は常々こう言われました。
「告解部屋で何を告白するか、よりも
『許しの秘蹟(告解)を受けよう』と思い、それを実際に行動に移すこと自体が尊いんだ」
・・・実際に神様からの “ 恩赦 ” があるかないか分かりませんが
であるならば
私たちはやはり
信仰心が薄れていても(汗)
面倒くさくても(大汗)
まずは自分の意思で教会に足を運ぶことが大切なのかなぁ、と思うわけです。
( ↑ 大してやってないくせに!)
♢
というわけで(どんなわけだ?)
皆様
あらためて主の御降誕にあたり、皆様の上に神様からのお恵みが豊かに注がれますよう、お祈り申し上げます。