すでに幾度か申しております。
私たち葬儀屋さんは好むと好まざるとにかかわらず
お葬式のご依頼をいただいたお客様の、ご家庭内のご事情を知ることとなります。
もちろん、それらすべての情報は個人情報でありますので
ここで明らかにするなどということはあり得ないのですが。
そういったご家庭内の様々なご事情を知り及ぶとき、時折思うことがあります。
それは
「当事者の抱える事情の背景は、当事者にしか分からないのだ」
ということ。
そして
「外から見えることのみで当事者たちを批判することは、非常に危険である」
ということ。
たとえば
ご近所の皆様の、井戸端会議などに端を発した噂話。
もちろん
そういった噂話に悪意など無いのかもしれません。
外から見えることから様々な推測をしてしまうのも、私たち人間の性(さが)なのかもしれません。
しかしながら
その背景にある、のっぴきならない事情は、当事者にしか知り得ないことだったりします。
外から一見すると
(なんて酷いことなのだろう)と見えてしまうことでも
当事者のご事情や背景を知ると、そこには苦渋の決断であったり、本当の愛、があったりするものなんですね・・・
♢
敢えて、私事を例に出します。
以前、私の父方の叔父が他界しました。
父方は全員カトリックの家庭なのですが
叔父のお葬式は、お寺のご住職を呼んで仏式で行われました。もちろん私も親族として参列をさせていただいたのですが
叔父の兄弟姉妹たちは口々に
「何故カトリック典礼ではないのか」
「○○さん(叔父の奥様)が勝手に仏式にした」
と、叔父の奥様に聞こえよがしに言い合っておりました。
さぞや叔父の奥様は肩身の狭い思いをされたのだと思います。
通夜後に用意されていた食事の席で
叔父の奥様が私に近寄ってきてお話くださいました。
「守生君(=私)は葬儀屋さんなんですってね」
そう言ってから、叔父の奥様は話し始めました。
「守生君もカトリックだから言い辛いんだけど
主人はずっと、岡田家の信じるカトリックに違和感を感じていたんです」
・・・私はそれを知っていたわけではありませんが
叔父の性格はよく知っていたので、叔父の考えはすんなりと受け入れられたのでした。
身内の恥を忍んで、敢えて申します。
岡田家のカトリック信仰とは
一言で言えば「厳格」そものもであり、そこにはカトリックとしての妙なプライドがあり、ともすると選民思想的な一面さえ感じられるものでした。
・・・おそらく叔父は
カトリックが嫌だったのではなく “ 岡田家のカトリック ” が嫌だったのだと思うのです。
「だから主人は病床で
自分の葬儀はカトリックではやらないで欲しいと言っていたんです。
息子たちとも相談して、こういう形になってしまいました。
でもこんな話、御義姉様たちにお話しても分かってくださらないですよね」
私は
それが叔父の奥様の救いになったかどうかは分かりませんが。
♢
よく「氷山の一角」と申します。
これは多くの場合、悪い意味合いで使われることが多い言葉だったかと思いますが・・・
逆に「水面上に顔を出している氷の山からは良からぬ印象しか目に映らなくとも
水面下に潜っている大きな氷の塊には、慈しみや愛、当事者たちの深い想いがある」
という場合がある、ということなんです。