百歳の洗礼式
今日、お手伝いを終えたお葬式
お亡くなりになられたのは、御年104歳の女性の方でした。
元々ご本人はクリスチャンではなかったのですが
その方が幼少の頃(つまり約100年近く前)、当時お住まいだった(現在の)長崎県五島市
で、何があるでもなく教会に行っていらっしゃったそうです。
何もわからないまま、ただ「主の祈り」を唱えていらっしゃったそうです。
それでも
カトリックの洗礼は受けないまま名古屋の地に移り住み
ライフワークとして短歌を詠まれ、地域紙では短歌の選者としてその才を発揮されていらっしゃったということです。
時は移って今から四年前
ご本人が100歳を迎えたとき、ご本人が「カトリックの洗礼を受けたい」ということで、ご自宅に程近い教会で洗礼を受けられました。
私の手元に洗礼式の写真があるのですが
ご本人は車椅子に座りながらも、喜びにあふれた表情で写っていらっしゃいます。
・・・凄いなァと思うんです。
おそらく幼少の頃の思いを
約100年もの間ずっと、胸に秘め続けて
ご自身が100歳を迎えたときに受洗の意思を示されたのです。
そして
ご本人はそのときの思いを謳っていらっしゃいました。
『受洗して 清められたり 我が胸も』
『一日を 神につかへし 心豊か』
『神父様に 握手いただき 胸ふるえ』
『教会の 祭壇麗し 天国か』
これを受けて
洗礼を授けられた神父様が返歌されました。
『百歳で 神の子になり 目に涙』
『百歳を 生きてなおかつ 神求め』
『神様の 秘めた計らい 今気づき』
『人生は 神の国への 一里塚』
・・・ただただ
神様の計らいに思いを馳せる思いでした。
見たら30歳は、まだ早い方ですと言われそうです。
以前ここでも書きましたが
ある私の老齢のお知り合いに、大戦中にご主人を戦死で喪われた方がいらっしゃいました。
その方は約70年以上にわたって、ずっとご主人のことを想いつづけていらっしゃいました。
年月が経とうと「変わらない思い」というのはあって
きっと今回の老齢のご婦人も、それこそ少女のように神を求め続けていらっしゃったのでしょうね。