要はそこに「心」があるかということ
昨日、爆笑問題・太田光さんのお母様のご葬儀が執り行われ
そこで喪主の太田さんはご自分を「ドナルド・トランプです」と話されたとのこと。
( → ニュース記事)
一方で
少し前にスピードワゴン・井戸田潤さんも、お父様のお葬式で漫才をご披露されたそうですね。
私は
太田さんや井戸田さんの行いを批判するつもりなど毛頭ございません。
「最愛の親を送る」お葬式という場面で
おふたりはそれぞれがご自身なりに熟考されたうえで、最も相応しいとご判断された送り方を実践されたということなのでしょう。
・・・以前は例外なく
お葬式に「笑い」は厳に慎むべきものとされていたように思います。
昔であれば
おふたりの行為は(家族のお葬式に何て不謹慎な!)と非難されていたかもしれません。
「喪に服す」という言葉があります。
これは近親者を亡くした者は一定の期間(一般的に一周忌まで)
日々の生活を慎み深く過ごし、晴れがましい行為や行事を控えるものとされています。
この意味において「笑い」は「喪中」に相応しくないと
以前は、ほぼ万人が共通した認識で捉えていたのだと思います。
少なくともお葬式において「笑い」は例外なくタブーとされていたように思います。
それが今日においては
この「喪に服す」という考え方が少しずつ希薄化してきているような気もいたします。
これはその「思い」が希薄化しているという意味ではなく
服喪期間における「生活」において、という意味であります。
しかしこれもある面ではむべなるかな、でありまして
遺された家族のお葬式後の生活において
様々な予定や行事を、死者を悼むためにそれらすべて控えるというわけにもいかない、という事情があるということはよく理解できるところです。
また特に「笑い」という一点についても
昨今では、たとえばご遺族代表者(喪主様)による会葬御礼のご挨拶でも、ユーモアを交えたご挨拶をされる方が以前以上に増えてきたという印象があります。
喪主様のお話に、参列された方々から笑い声があがることもしばしばであります。
・・・私は、それでいいと思っております。
要はその「生活」や「笑い」の裏側に「心」があればいいのだと。
冒頭に挙げたおふたりの行為には間違いなく
おふたりなりの深い「心」があったに違いないのであります。
当事者でない私たちは
ただ、おふたりの「心」を汲み取ればいいのだと思います。
他者には分かり得ない
家族どうしだからこそ分かり合えることもあるのでしょうね~