『在宅死』に思う
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→『在宅死』 愛川欽也さんも選択した最期の迎え方が話題
愛川欽也さんに関する記事を取り上げさせていただくにあたりまして
まずは、愛川さんの魂の安息をお祈り申し上げます。
・・・さて。
実際に “ 話題 ” になっているのかどうかは存じ上げませんが・・・
『在宅死』とは “ 普通の ” 選択肢のひとつであります。
これはなにも今に始まったことではなく
おそらく皆様もご存じの通り、その昔は病院死亡よりも自宅死亡の方が多かったのですから。
因みに名古屋エリアで申しますと
今から20年以上前、私が葬祭業に携わるようになった当初
私の感覚としては「病院死亡:自宅死亡=7:3」といった割合だったかと思います。
あの頃より自宅死亡の率は減っていることでしょうが
昔も今も『在宅死』は普通にあったし、あるんです。
ところが、主に医療技術の発達によって(と、私は思っておりますが)
人がその一生を終える空間が、自宅から病院や施設に変わってきたと。
(何とか生き長らえたい)
或いは
(少しでも長生きしてほしい)
というご本人やご家族の切なる思いが、今の現状を生んでいるのではないでしょうか。
このように考えると
今の現状もまた「当たり前」といえると思うんです。
・・・つまり逆にいえば
今いわれる『在宅死』という選択肢の先には、主に終末医療が前提にあるということです。
「どこで最期を迎えるのか」という問題である、と。
「最期は畳の上で」
殆どの方がそう思われるに違いありません。
「慣れ親しんだ自分の家(部屋)で
愛する家族に看取られながら一生を終える」
・・・これはひとつの理想です。
しかし記事にもあるように
終末期の在宅療養の場合、ご家族にそれなりの負担がかかります。
記事では主に経済的負担がいわれていますが
私の知る限りでは、それ以上にご家族の肉体的及び精神的負担ももちろんですが、その先にある「ご家族の時間が拘束される」という負担が大きいのではないかと思います。
(そういうお客様のお声を幾度もお聞きしてきましたので)
おそらく在宅死とは
昔以上に大きな『理想』になっているのではないかと思います。
死を意識したご本人の思いがあって
その思いを汲み取り、それを叶えるための労を惜しまないご家族の思いと決意が結実してはじめて、それは叶えられるものなのでしょう。
・・・しかし。
では病院で最期を迎えられた方々は在宅死よりも幸せではないのか。
決してそのようなことは無いのであります、断じて。
最も大切なのは「場所」ではない。
そこに流れる「時間」なのであります。
限りある時間を、ご本人がどのように過ごせるのか。
ご本人のために、家族としてどれだけ自分たちの時間を割くことが出来るのか。
そこに尽きるのだと、私は確信します。
そして
その時間をいかに尊いものにできるのかは、ご家族次第なのであります。
ご来訪&愛情に溢れたコメントを有難うございます。
いつの日か訪れる再会のとき
よいご報告ができますよう、心よりお祈り申し上げます。