ゾウさんでさえ・・・
・・・という言い方自体、ゾウさんに失礼なのかもしれません m(_ _)m
少し前にアップされたものですが
是非一度、こちらをご覧いただきたいと思います。
↓
『(動画)死を悼むゾウ達 』
・・・もちろん
何故彼らがそのような行動に出るのか、その真意はゾウさんたちだけが知るところです。
しかし少なくとも
何らの意味もなく、彼らがこうした行動をするわけじゃないはずですよね?
映像を観る限り、いわゆる単純な動物の本能によるものとは考えづらい。
・・・いや、逆に本能だとしても
それは「仲間を慈しむ」「悼む」という本能、のような気がします。
・・・「悼む」という行為が本能なのだとしたら
私たち人間はどうなんだろう・・・
昨今において
私たち人間は(特に現代日本人は)自分たちのお葬式が必要か否かについて考えます。
お葬式に高額な費用をかける必要があるのか。
お葬式において、ことさらに派手な演出は必要なのか。
宗教儀礼を伴うお葬式に何の意味があるのか。
そして
そもそもお葬式なんてものに価値があるのか。
お葬式の必要性について考えるとき
ともすると私たちは、その費用面にばかり目が行きがちな気がします。
もちろん私も、お葬式に過度な費用をかけることが必定だとは思っておりません。
ただ
費用面に関する議論をそのまま、お葬式不要論に結びつけるのは違うだろう、と。
お葬式の必要性について論ずるのなら
まずはその本質について考えるべきじゃないかと思うんですね。
その意味において
記事にある動画に映し出されるゾウさんたちの行為に、ひとつの回答があるような気がするんですよね・・・
“ ゾウさんでさえ ” ・・・なんですから。
>そもそもお葬式なんてものに価値があるのか。>。>お葬式の必要性について考えるとき>。
???、必要でしょう。通過儀礼として。でなければ残された人は?
ピラミット、古墳、お墓、等何らかの意味で記憶を形にしてきました。ケジメとして生けている人は必要だと思います。、、、が?
仰るところの「ケジメ」とはつまり『グリーフワーク』なのだと思います。
それは理屈からくる「ケジメ」などではなく
心の底から湧き出る「想い」に他ならないのだと。
・・・稀にまともなコメントをいただけるので
これはこれでツッコミづらいところではあります(笑汗)