西神父様の言う親孝行
今日は
とある知人から、ちょっとした相談を受けておりました。
相談というか、ただ話を聞いていただけなんですけどね・・・
その知人が言うには
最近親御さんが病の為に入院して、その親御さんの為に自分が出来ることが何なのかを考えているとのことでした。
・・・いや、実際のところは
「これまで自分は大した親孝行などしていなかった。
今になって気付かされたけれど、今さら何をしたらいいのか」
といったところのようでした。
「こうなってはじめて慌てるなんて」
私の知る限り
その知人は十二分に親御さんを大切にしていたと思っています。
暇があればご実家に顔を出すし
折々に触れては、ご両親を連れ立ってどこかに出かけたりしていたんです。
超親不孝者の私(恥)からすれば、立派なものだと思うわけです。
・・・それでも思うらしいんですよね。
いや
そういう彼だからこそ思うものなのかもしれません。
♢
私の畏友・西経一神父様は
私が普段から自分の親のことを侮蔑した言い方をするたびに激昂します。
マジ切れします。
自分を産み育ててくれた両親を悪く言うのが、彼には許せないのだとか。
そりゃまァ当たり前なんですよね(汗)
で
西神父様はいつも私に言います。
「もっと親のところに顔を出せ!」と。
「別に手土産など無くていいから、とにかく顔を出せ。
オマエみたいな出来損ないでも(失礼な!)
親御さんにとってはかけがえのない息子なんだぞ」
これはたしか以前にもここで書きました。
西神父様曰く
いちばんの親孝行とは「親の為に時間を割くこと」だそうです。
彼によれば
「割く」という行為こそが「愛の実践」であると。
それはキリスト教の根幹にあるものでもあると。
「イエス様は私たちの為に、ご自分を割いて下さったんだぞ」
「ミサのなかで、司祭はパンを割くだろう。
あれは最期の晩餐の時、イエス様は弟子たちにパンを分け与える為にパンを割いたわけだけど
あれはつまり、イエス様ご自身を「割いて」いるんだぞ」
「ならば
オレたち凡人が出来ることといえば、時間を割くことくらいなもんだろ。
大切な人の為に時間を割く行為がどれだけ尊いことか。
オマエみたいな愚か者には分からんだろうがな!」
・・・いや
さすがにこの歳にもなると、何となく分かるような気がします。
何もしなくても
何もできなくても
ただ傍にいるということが、大切な人への最大の愛の実践なのかもしれません。
私もいい年。うちの母は「私より先に死んじゃいやだよ。」と言うのが口癖で、それに対して「だったら私より先にいきなさい。」というのが昨年までの親子の会話でした。しかし、昨年末、手術のミスで片眼の視力を失ってからは「もう片方の眼が見えなくなる前に死にたい」と言いだし返す言葉がありません。
「もっと親のところに顔を出せ!」と言う神父さんの言葉、耳が痛いですわ。会いに行かなくっちゃね~。でも遠いのよね(^^;
お引っ越しされたんですね~、お疲れ様でした m(_ _)m
私の父も
重度の緑内障で、もしかすると近々失明するかもしれないそうです。
で
「失明する前に」というわけでもないのでしょうが、今度の週末に何年かぶりに会ってきます(照)
全てを受け入れる必要などないと思いますよ。
私もまた
(詳細は控えますが)結構複雑な両親のもとで育ちましたので(汗)お気持ちはよく分かります。
これは私見ですが
「自分の親」として見てしまうから腹も立つし、受け入れ難いところばかりが目に付いてしまうように思います。
自分と同じひとりの人間として見たとき、私なんぞが父や母を責めることは出来ないなァと思うのです。
眼圧が上がって苦しんでいる時には「死にたいー!」言っていたのに・・・
片目を失い少しは大人しくなるかと思っていましたが、性分なんでしょうね一日じっとしていません。日々の行動を聞くたびにハラハラドキドキです。
お父様、喜ばれますね。親孝行いっぱいしてきてください。(^-^)