『悔い改めよ!』 の話
以前からここで申しております通り
私の人生における最大のテーマが「罪と赦し」であります。
これは
私がカトリックの幼児洗礼を受けながらも教会へ通わない幼少時を過ごし
しかし高校生時代に自分の意思で教会へ通うようになったきっかけ、でもあります。
多感な高校生時代
私は自分自身の中にある様々な罪を自覚して、悔い改めようとしました。
もちろん、教会の教えは私にとっての大きな指標となりました。
しかし実際に悔い改められたのかというと・・・
まァ出来ていませんね(汗)
「悔いる」ことはしても
「改める」ことが難しかった。
・・・そうなんですよ。
「悔いる」ことと「悔い改める」こととは、大きく違うんですね。
「ごめんなさい」
は本心から言えても
「もういたしません」
と宣言することが難しい。
いや
宣言すること自体は容易いかもしれません。
これを実行・遵守することが難しい。
私も来年は50歳です。
これまで生きてきて(悔い改めることが出来たことがあるだろうか)と考えるとき
胸を張って「悔い改められた!」と言えることって・・・
・・・ないデス、残念ながら (汗)
煩悩は相変わらず私を支配し
利己的な考え方から脱却できずにおります・・・ (><)
でもネ
自分を正当化するつもりは微塵もありませんけど
人間ってそんなもんじゃないかって思うところもあるんです。
だァって
本当の意味で悔い改めることが出来たとしたら、その人は聖人でしょ。
私は聖人なんかじゃない。
ただの凡人です。
凡人は凡人らしく(笑)悪あがきしながら生きていくしかないんじゃないでしょうか。
もちろん自分の犯した罪を自覚しないのはイケナイ。
でも、それを自覚しつつ
「直したいけど直せない」自分に絶望してはいけないとも思うんですね・・・
前にも書きました。
ウチの会社名『ディーズ( D's )』の由来。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(ルカによる福音書・23章39~43節)
ここでイエスに「私を思い出して下さい」と言った罪人。
よく “ 善き罪人 ” などと称される彼の名は、聖書にはありません。
しかしいわゆる外典を紐解きますと、そこには『デュスマス(或いはディスマス・Dysmas)』とあります。
ウチの会社名は、この善き罪人・デュスマスの頭文字を拝借したものであります・・・
・・・私は
すべての人が死を迎えるその最期の時、自分の罪を自覚し悔い改めることが出来れば、それで良いんじゃないかと思ってるんです。
それこそがキリスト教の究極の救いなのだと思うし、そこに希望を見出したいと思うのです。
悔いることが出来ても、悔い改めることが出来ない。
何度も何度も、同じ過ちを繰り返してしまう。
でも、そんな自分に絶望する必要などない。
最期の最期
私たちは “ 滑り込みセーフ!” のチャンスを与えられているのだと。
まずゴメンナサイ m(_ _)m
本文では「来年は50」と書いておりましたが、もう「今年で50」の間違いでした(汗)
自分を知り、謙虚であること。
それだけでも充分に「救い」の対象となり得ると思いますよ ♪