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D’s(ディーズ)さんのぶろぐ

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私にとってのミサ

 
私はカトリック信者。
そしてクドいようですが、決して “ 敬虔 ” などではありません。
しかし、ミサには行きます。
時折だけど。
日曜日に早起きするのがイヤだから、土曜日の夕方のミサに行きます。
土曜日のミサは参列者が少ないのがイイ。
そして
聖歌を歌う箇所を朗読や唱和で済ませるから、時間が短いのもイイ(笑)
(時折聖書朗読をさせられるのが玉にキズ・・・)


ところで。
(私にとってのミサって何だろう?)と考えると・・・

まず思い浮かぶのは “ お洗濯 ” です。
よく “ 心の洗濯 ” と言いますが
私の場合、ホントに心がすぐに汚れてしまうんです(恥)

『慢心』とか
『傲慢』とか
『エゴ』とか
『虚栄』とか
『冷淡』とか・・・
(書いていてイヤになってきました)
そういう種々雑多な汚れを
定期的にお洗濯してやらないと汚れが落ちなくなっちゃうんです、多分。

私の場合
(幸か不幸か分かりませんが)
神様の存在に関しては信じ切っちゃってるところがありますので
聖書に書かれている言葉とかミサのなかでの祈りで、反省を促してもらうわけなんですね。
前にも書きましたが
この歳にもなると、周りの人間から叱咤されることが少なくなるわけです。
これを放っておきますと
元より傲慢の塊のような人間であります私は、さらに調子こいてしまうに違いないのであります。
要は
「定期的に自己反省せよ!」ということであります・・・


そしてもうひとつ。
葬儀屋さんという生業に携わる人間として申しますと
『初心を思い出すための場所』ということになります。

カトリックミサ典礼のなかに、死者の為に祈る箇所があります。

「亡くなったわたしたちの兄弟
また、み旨にしたがって生活し、いまはこの世を去ったすべての人をあなたの国に受け入れてください。
わたしたちもいつかその国で
いつまでもともにあなたの栄光にあずかり
喜びに満たされますように」



・・・私たち葬儀屋さんは
ともすると、日々携わるお葬式のお仕事をルーティンに捉えてしまうことがあります。
勿論そんなことは絶対にあってはならないことなんです。
でも正直に言えば
そういう心理状態に陥ってしまうことって・・・やっぱりあるんです(少なくとも私は)。

たしかに私たちのお仕事って
他のご職業の方々よりも少しだけ「死」が身近に感じられるのだと思います。
しかし
身近に感じられるからこそ、時として麻痺してしまうような気がするんですね・・・


先に書きましたお祈りの一節は、決して長いものではありません。
しかし
この短い祈りの言葉によって、私は自分に与えられた役割を再認識することができます。

「オマエは何をしてゴハンを食べさせてもらってる?」
「今のオマエの役割は何だ?」
「今のオマエのレゾンデートルとは何だ?」

・・・葬儀屋さんたる以上、葬儀屋さんたれ、と・・・


私は忘れる。
でも、思い出す。

思い出さなくなったら、この仕事ヤメマス。
by dscorp-japan | 2012-07-16 00:15 | キリスト教 | Comments(2)
Commented by アメリカのヨハンナ at 2012-07-20 13:09 x
D’sさん

私も敬虔とはほど遠いのですが、
ミサに(だけ)は行きます。
すぐ近くに教会があるので、
平日もできるだけ行くようにしています。
聖書朗読の箇所が世界中どこにいても
同じなんだな〜と思うと何だか嬉しくなります。
死者のために祈る箇所では、
亡くなった人達をふと思い起こしたりします。
それに、自分もいつかその人達に
加わるんだな〜なんてことも頭をよぎったりします。
毎日忙しなく過ぎていくので、
私もいつもはそんなことはすっかり忘れていますが、
ミサでふっと思い出すことができるのは
有り難いことですよね。
Commented by dscorp-japan at 2012-07-20 22:39
☀アメリカのヨハンナさん。
>自分もいつかその人達に加わる・・・
そういう思いって、とっても大切だと確信します。
人間の生活全般、特に相互扶助という概念において
「今自分が手を差し伸べることは、いつしか自分もまたその手を必要とする」という真理につながるものです。
「いのちのリレー」とは、まさしくそういうものなのだと思います。
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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