映画 『恋する神父』
いわゆるラブコメ系映画みたいなんで、これまではちょっと敬遠していたんです。
ただ一方で「神父」とある以上(カトリック司祭の話?)ということで気にはしていたんです・・・
(2004年公開)
韓国と言えば儒教の国、というイメージではありますが
実は韓国におけるキリスト教人口の占めるパーセンテージは、日本なんかよりずっと高いんですネ~
(ウィキペディア『韓国のキリスト教』参照)
韓国の俳優さんについてはよく知らないんですが
若き神学生役のクォン・サンウさんも、ヒロイン役のハ・ジウォンさんも有名な俳優さんなんだそうです。
(知らなくてゴメンナサイ)
ギュシク(クォン・サンウ)は、神父になる儀式を1ヵ月後に控えたマジメな神学生。
親友の巻き添えになり片田舎の教会へ精神修行に出されることになった彼は、そこでアメリカ帰りの奔放な娘ボンヒ(ハ・ジウォン)と出会う。
恋人にふられて暴走する彼女に洗礼を受けさせること。
その教会からの卒業課題を前に途方にくれるギュシク。
神をも恐れない彼女の行動に振り回されっぱなしの彼だったが、ボンヒが優しい心の持ち主だとわかるにつれ次第に彼の中には恋心が芽生えていく。
しかし、生涯を神に仕えると決めた彼には、恋など許されるはずもない。
切ない思いをぐっと内に秘め、ギュシクはボンヒの幸せを元彼に託そうとする・・・・。
彼が流した涙のわけと、最後につぶやく「デオ グラシャス」の言葉の意味とは?
(映画公式サイトのあらすじより転載)
こういう類の映画を観るときって
どうしてもカトリック的描写が正しく描かれているのかに目が行ってしまいます。
無意識のうちに “ アラ探し ” をしてしまうんですね。
・・・クリスチャン “ あるある ” ですネ(笑)
そういう点では至極まっとうに描かれていましたね~
神学生たちによる、ミサ前の香部屋でのやりとりとか(私も侍者として大いに経験アリで笑いました)
神学生たちのホンネだとか
この映画を観れば、決してクリスチャンが一概に “ 敬虔 ” なだけではないって分かるんじゃないでしょうか(笑)
♢
さて
この映画で重要なキーワードとなるのが
“ デオ・グラシアス(Deo Gratias)” という言葉。
ラテン語ですね。
簡単に言えば「神に感謝」と訳せるんじゃないでしょうか。
映画のなかで
神学生のギュシクはことあるごとにこの言葉をつぶやきます。
それだけ純粋な信仰の持ち主なんでしょうね。
「神に感謝」・・・?
・・・あたしャ滅多なことではつぶやきませんなァ・・・(笑汗)
映画の中盤
この「デオ・グラシアス」の意味するところについて、ギュシクはこう語ります。
「これは暗号と同じ。
“ 愛してる ” という言葉は、誰かに聞かれたら恥ずかしい。
だからささやくんだ。
神様だけに聞こえるように。
“ 感謝してます ”
“ 愛してます ” ・・・ 」
“ 愛してます ” ・・・?
・・・え?
そうだったのォ~???
イヤイヤ(笑)
あくまでひとつの解釈の仕方でしょ。
で、この「デオ・グラシアス」という “ 暗号 ” が、その後の二人の運命を動かすわけですね~(半ばネタばれ気味)
個人的に印象的だったのが、ギュシクの叙階式(司祭になる儀式)の直前の場面。
ボンヒへの想いを断ち切ろうとしながらも
司祭に叙階されることに躊躇するギュシクが、一緒に叙階する親友・ソンダルに言います。
ギ 「結婚する気分はこんなもんかな・・・」
「お前から見て、僕は司祭に相応しい?」
ソ 「スプーンになれるさ」
ギ 「スプーン?」
ソ 「司祭はスプーンと同じ。
スプーンがなくても、箸や手でメシが食える。
大事なのはメシだ」
・・・これはなかなか良いやりとりでしょ~ ♪
かなり真理を突いていると思いますね~
さらに会話は続きます。
ギ 「僕は罪を犯した・・・」
ギュシクと苦楽を共にし、彼の想いを知るソンダルはこう言います。
ソ 「それは罪じゃなくて愛だ。
神様は誰よりもお前を誇らしく思うだろう」
ソンダル、カッコエェェ~!!
究極の赦しじゃありませんか!
ソンダルは絶対良い神父様になる!(・・・って映画の話だけどネ)
こんどそのさて
>
「この映画で重要なキーワードとなるのが
“ デオ・グラシアス(Deo Gratias)” という言葉。
ラテン語ですね。
簡単に言えば「神に感謝」と訳せるんじゃないでしょうか。」
いい言葉です。「 デオ・グラシアス」
今日もあなたに
こういうのは カトリック的描写が正しいか正しくないかなんて見ちゃダメダメ!
でも自然と気になっちゃいますよね(^^;
ラストシーンでギュシクとボンヒが教会で出会うシーンで、よかったよかったって泣いちゃいました。
また韓流ドラマにハマちゃいそう。
今日も神に感謝!Deo Gratias!