人として
ある宗教のお葬式があるとします。
どのような背景で、お葬式がその宗教の典礼を採択するに至ったのかは様々です。
① 故人様の信仰していた宗教だったから。
ご家族は故人様とは別の宗教だけれど、ご家族が故人様の宗教を尊重したというケース
② ご家族の信仰している宗教だったから。
①とは逆に、故人様の宗教は別だったけれど、ご家族の信仰する宗教での葬儀を希望したケース
③信心の深浅は別として、家の宗教だったから。
その宗教に特段のこだわりはないが、家が代々関わってきた宗教だからというケース
・・・などでしょうか。
ここで申し上げたいのは
上に挙げるケースそれぞれを、正しいとか間違いだとか判定することではありません。
これはご本人の問題であり、ご家族の問題であるからです。
外部の人間がとやかく言う筋合いのものではないと思っています。
私は、基本的に信仰というのはその人のアイデンティティのようなもので、だから信教の自由が認められているのだと解釈します。
故人様或いはご家族がどのような宗教の(或いは無宗教の)お葬式を選択されようと
外部の人間がそのお葬式を(何故だ)(どうしてだ)などと意見することは違うと思っています。
たとえそのお葬式が、故人様とご家族との間での意思の疎通が不十分であり、ご本人の希望とは別の宗教でのお葬式となったとしても、です。
あくまでもご本人とご家族の問題です。
ここにAという宗教のお葬式があったとします。
故人様はBという宗教の信者ではありましたが、ご本人が生前から「Bの葬儀はイヤだ」と漏らしていました。
ご家族の皆さんは特に宗教に対するこだわりはありませんでしたが、ご本人の意向を汲み取って、Bとは別のAの典礼に則ったお葬式を選択されました。
お通夜・お葬式に、Bの関係者の皆様が参列されました。
その方々は皆、式場に着いた時点から一様に眉間にしわを寄せ
いかにも不服そうな態度で受付を済ませます。
式中もまた憤懣たる態度のまま。
ご遺族はBの関係者の方々に対して恐縮しつつ、それでも丁寧に頭を下げられます・・・
「申し訳ございませんでした・・・」
・・・一体何なんだ?
宗教の前では、人の死さえも軽んじられるのか。
宗教が人の死を冒涜するのなら、その宗教は何のためにあるんだ・・・?
私は
人の「死」という、厳然たる真実の前で謙遜でありたい。
すべての「死」を厳粛に受け止めたい。
人として。
日本人は、ある意味世界でもまじめな人種だと思います。
宗教に関しても、仕事に関してもある意味一本気だと思います。
ただ、自分に関係ないことに関しては・・・
どうんなでしょう。
今回書かれた中にある
「その方々は皆、式場に着いた時点から一様に眉間にしわを寄せ
いかにも不服そうな態度で受付を済ませます。
式中もまた憤懣たる態度のまま。」
ある意味、故人に対してか、故人のご遺族に対してか、戦中に使われた非国民というような感情だったのでしょうね。
しかし、自分に関係ないことに関しては
お宮参り…神道
結婚式…キリスト教
お葬式…仏教
なんてところもたくさんあるのではないでしょうか。
その最たるものがクリスマスでしょうね。
なんのために故人のところに集ったのか。
自分達の信教の正しさや団結性を確認するためではありませんよね。
ご賛同いただき、恐縮です。
私は、日本人独特の “宗教混在性” みたいなもの自体は否定はしないんです。私自身はキライですが。
ただ、そうであるなら尚更、こういう場面で自身の宗教だけを正当とするような態度をとるのはエゴでしかないと思うんですよね~。