『ある雨の日に』 西 経一
久々の“西神父ネタ”でございます(笑)
拙ブログへのアクセスルートのキーワードに『西 経一』『西神父様』『西先生』などがありまして
これがまた、毎月のように非常に多いわけなんですよね~
どうやらこのブログ
『西経一神父・私設ファンサイト』の様相を呈してきております・・・(汗)
昨晩もまた、西神父と会っておりました。
彼、相変わらずの多忙さです。
午前中は3コマの授業をして
その後電車で三重県にあるミッション系の学校へ講演に出向き
夕方名古屋に帰ってきた後に、とある会合に出席(ここには私も同席)、と。
・・・まァ
無理しない程度に励んで下さい、としか言いようがありません(汗)
♢
ところで。
夜の会合を終えた後、ちょっとだけ西神父様のお部屋にお邪魔したんですが
彼のテーブルの上にあった印刷物に目がとまりました。
『南山育友会通信』
南山学園のPTA会報誌でした。
そこに彼の文章が掲載されていたので(本人の了承を得て)転載させていただきます。
『ある雨の日に』
ある雨の日のことです。
校舎には授業中独特のしずけさがあって、外に立つ私の耳には傘を打つ雨音だけが響いていました。
私は誰もいないグラウンドを漠然と眺めておりました。
雨が降ればただ濡れている、そのグラウンドのしずけさに浸っておりました。
それは雨の日特有のしずけさと漠然とした空白のただなかに、グラウンドのありようの深さに触れていたということでありましょう。
雨が降れば濡れ、風が吹けば削られ、雪が舞えば受けている。
晴れた日は、生徒たちがドンドン踏みつけ、子どもたちがベタベタ駆け回る。
自分を削り取るそのシューズの下で黙然と徹底した無愛想を貫く姿の尊さに触れていたのでありましょう。
父といい母といい、いずれもわが身を削って子を養うという、そのありようの尊さは日常のドタバタのなかでは気付かれようもありません。
また、父の日母の日といって、一応の感謝はされても、その感謝が子どもが親の苦労とありがたさを身に沁みて感じ取ったうえでのことなどとは思ってもおられないことでしょう。
それは子ども自らが人の子の親になってはじめてわかることなのであって、それでよいのだとする父母の聖なる諦念によるものであります。
「孝行したいときに親はなし」とは、その聖なる諦念を言い表わしたものであります。
それは恩返しは早めにしないと手遅れになるという警告なのではなく、自分たちにはお返しはしなくてよいから、今度はおまえが自分の子に同じようにしてあげなさいという勧告なのです。
父母の愛の深さは言挙げせぬ沈黙の深さにほかならないのです。
一切の言葉も発せず沈黙のうちに生徒を迎えるグラウンド。
そのグラウンドに帽子をとって深々と一礼して駆け込む運動部の生徒の姿に感動を覚えるのは、単に礼儀正しいからなのではなくて、黙して支え働くものに対する敬意が示されているからです。
練習を終えて後「ありがとうございました」と一礼して立ち去るその爽やかさは、黙して語らぬものへの尊敬から生まれているのです。
それは道場でも体育館でも同じことであります。
さらに言えば木々も草花も、本も茶碗も同じであります。
カトリックの神父として子を持たない私は、わが子のために黙して働くという修行の道を歩むことは出来ませんが、グラウンドのように草木のように茶碗のように、黙して働くという修行に励まねばならないことでしょう。
母亡きあと、私を男手ひとつで黙々と働き育ててくれた父を思い綴りました。
・・・私もまた、子を育てた経験がありません。
しかし『黙して働く』という言葉には、今さらながらに心を動かされました。
何らの見返りも求めず
ただ自分以外の誰か(或いは何か)の為に身を削ることの尊さを、あらためて知らされた思いです。
私の同級生の多くは父であり母であります。
なかにはすでに祖父や祖母になっている人間もおります。
教員時代の教え子もまた、父や母になっています。
私は
そうした同級生、教え子たちのことを尊敬せずにはいられません。
そこにある無償の愛を信じられずして
神の愛を語ることなど出来るものではないのであります。
・・・久々に “西ネタ” で真面目ぶってしまいました・・・(照)
すぐにヒットしますから(笑) (すみません・・)
相変わらずのご多忙ぶりに、少々心配しております・。私もまたまた、子を育てた経験がありません。
父から、母から受けた無償の愛を今度は教会学校の子どもたちや他の人々に伝えていくことが使命なのだと考えてしまいました。D'sさん、西神父様に感謝です!!