マタイによる福音書 6章
たまにゃキリスト教のお話でも・・・って、エラそうに!
・・・スミマセン m(_ _)m
すでにここで何度か宣言しております。
私は、聖書を完全に通読したことがありません。
・・・いや、知らないうちにブツ切りの断片読みをつなげれば全文読んだことになるのかもしれませんが
最初から最後までを「読み切った~!」という実感などは持ち合わせておりません。
・・・46年も生きていながら・・・(恥)
・・・それでも
個人的に好きな箇所が無いわけではありません。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには
偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように
自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。
はっきりあなたがたに言っておく。
彼らは既に報いを受けている。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
(マタイによる福音 6章1-4節 新共同訳聖書)
※ 文章の改行などは私の一存でしております、悪しからず
私の若い頃、ある神父様がこう仰いました。
「カトリック教会で言うところの『聖人』というのはネ
誰からも注目されず
評価もされず
ただただ、静かに生き抜いた人のことなのかもしれないんだよ」
また
別の神父様はこう仰いました。
「普通であること。
『普通』の定義は人それぞれかもしれないが
一般的に『普通』とされる生き方をすることがどれほど尊いことかを知りなさい」
ご葬儀のお手伝いをさせていただくとき
私は出来るだけ、このことを心に留めようと意識します。
故人様の本当の生きざまを、私が知る由などありません。
すべてを知っておられるのは神様だけでしょう。
しかし
だとするなら、私は少なくともお葬式のお手伝いをさせていただくときだけでも
等しく謙虚であろうとは思うんです。
・・・私の場合
左手に知らせないようにする右の手の行いは、悪い行いでしかありませんので・・・(恥)
信者生活15年目ですが聖書通読はしたことがありません。
神父様には勧められますが、途中でめげてしまいます。
全ての人は聖人になるよう招かれているらしいですが、謙虚さ、謙遜さ、そして小さきものになることが、一番難しいかもしれません。
聖ベネディクトの戒律にも謙遜さの重要性について書かれていたように記憶しております。
私の右の手も・・非常にまずいです・・。
謙虚な心で、行いで、目立たぬように生きたいですね!
・・・非常に“心強いお言葉”(笑)有難うございます <(_ _)>
謙遜とは、何と難しいことでしょう。
私たちはどうしても他人からの評価を求めてしまいますし、報いを欲してしまいます。
それらを完全に放棄することこそ、本当に神様を信頼していらっしゃることの証なのでしょうね・・・(私にゃゼッタイ無理!)
福島が気になる今日この頃です。
『・・私の場合左手に知らせないようにする右の手の行いは、悪い行いでしかありませんので・・・(恥)』
その右手、まあ良いのでは、僕との飲み会は。その右手で飲みましょう。
敢えてここでは記事にしておりませんが
私もやっぱり、東北の方々のことはいつも気にかかっております。
被曝量がどうとか、「安全だ」とか「危険だ」とか
毎日のように報道されていますが・・・
問題は何シーベルトかではなくて
たとえ少量であっても、放射線が漏れたこと自体が問題なのになァと思うわけです。
・・・「飲み会」・・・?
いつも言ってるでしょ。
私は呑めないの!
ただ付き合ってあげてるだけなの!(笑)