神様にはいてもらわないと・・・
特に
幼い命が、大人の都合で命を落とすような事件はたまりません。
報道に触れる私たちは
(何でそんな酷いことが出来るのだろう?)
(加害者の良心や倫理観は一体どうなっているんだ?)
心を痛めずにはいられません。
大阪で起きた、若い母親による二人のお子さんの遺棄事件もそう。
報道によると
母親は、自宅マンションの部屋の扉や玄関のドアに、子どもたちが脱出できないように細工をしていたということです。
「ご飯をあげたり、お風呂に入れたりするのが嫌になり、子供なんかいなければよかったのにと思うようになった」「すべてから逃げ出したくなり、子供2人を残して部屋を出た。ご飯や水を与えなければ、小さな子供だけでは死んでしまうのは分かっていた」
母親の、この上ない身勝手な都合で、幼い二人の命は断たれることとなったという・・・
この
尊い小さな二人の命は、一体何のためにこの世に産み落とされたのでしょう。
3才と1才ですよ・・・
「まだまだこれから」というより
まだ何も始まっていない人生・・・
♢
事件からは離れますが
私たち葬儀屋さんは、まだ生まれて間もないお子さんのお葬式も経験します。
葬儀依頼の電話が
「〇〇産婦人科まで来てください」などと言われようものなら、一気に気分が落ち込みます・・・
人の命に優劣などありません。
それら全て、全く平等です。
でも思ってしまうんです。
(子どもじゃないよな・・・?)
(せめて母親であってくれ・・・)
幼いお子さんが亡くなるたび
私たち葬儀屋さんは皆思います。
(神とか仏とか、アイツら一体何を考えてるんだ?)
でも一方で、こうも思うんです。
(いやいや、それでもやっぱり神様にはいてもらわないと困る・・・!)
私たちがどれだけ空を見上げて罵倒しても
幼い命が帰ってくるわけではありません。
現実は、常に私たちに厳しい。
到底納得などできない、承服し難い現実を前に、それでも私たちはお葬式をしなくてはならないんです。
(無論、御遺族のお悲しみなどには到底及ぶものではありませんが)
・・・この世を旅立たれた幼い魂は、本当にそれで終わりなのですか・・・?
そんなの、辛すぎます!
もしもそうなら
私らは葬儀屋さんなんてやってられないんです。
幼い魂たちの行く先が天国なのか阿弥陀浄土なのかは知る由もありません。
しかし
彼ら彼女らの魂が“かの地”へ旅立たれた先に、何らの慰めも憩いも与えられないのだとしたら、今私たちが暮らすこの世界もまた虚しくなるだけなのではないでしょうか。
やっぱり
どうしても
天国はあってもらわないと困るし、神様にはいてもらわないと困るんです・・・!
・・・母親から酷い仕打ちを受けた幼い二人の魂が
天国で、豊かな慈しみと慰めのうちに過ごされていることを切に願うばかりなのです。
「神様にはいてもらわないと困る」
全く同感です。
何となく遠藤周作の「沈黙」を思い出しました。
現実は常に私たちに厳しい。
でも…。
私も幼い二人について祈りたいと思います。
幼い二人の事件に心が痛みます。。
確かに子育ては大変です。
一人で育児も家事も仕事も大変だったと思います。
3歳以下の子供は本当に手がかかりますので。
でも、育てたくなくなったのならどうして施設にそっと置いてくるとか
生かす方法を考えてくれなかったのかと憤りさえ感じます。
私はクリスチャンではありませんが、毎日マリア様にお願いしています。
「世界中の子供たちが母親の胸に抱かれて眠れますように」
幼い子どもが母親に抱かれて眠ることほど安堵感を得られることはないと思っています。
事件のあの二人は母親に捨てられてどんなに辛かったでしょう。
神様、マリア様、二人をどうか天国に・・
またお邪魔します☆
・・・仰る通りでして
たとえ育児放棄したとしても、その命までも放棄することはなかったのにと悔まれてなりません。
こういう事件を知るにつけ、以前話題となった『赤ちゃんポスト』を設けた熊本の慈恵病院(これまたカトリック系の病院)のことが思い出されます。
この窓口の賛否はともかく
もしもこの事件が起きたマンションのそばに『赤ちゃんポスト』があったらどうなったんだろう?と思わずにはいられません。
やはり私は、たとえその子どもの未来が明るくないかもしれないとしても、その命を奪う権利は誰にもないのだと思っていますので。
または、「育てたくない」という人たちに対し
社会通念は通用しないので「赤ちゃんポスト」や
「特別な施設」の拡充が必要なのではないでしょうか。
(確かに賛否は置いといて)
もしくは、社会起業(社会の課題を、事業により解決する)
でもいいと思います。
些末な問題も多々あると思いますが
施設維持費用の捻出が容易になれば
もう少しハードルは低くなるでしょうね。
私たち日本人は皆「命」の尊さを軽んじ過ぎていますよね。
「死んでしまえ」
或いは
「死んでしまいたい」
という考えの方には、是非葬儀屋さんに研修にお越しいただきたい。
人間の「死」を通して、自らの命を考えることが出来ます。
葬儀屋さんをやっていると、本当に痛感します。
人は
生きているのではなく
生かされているのだ、と。