良い「お寺」・悪い「お寺」
お寺にかかわらず、宗教全般にいえることですが
同じ宗教、同じ宗派でも「このお寺は良い」とか「いやいや、ウチのお寺はどうも・・・」という評価ってあると思うんですよ。
その評価基準にもいくつかありまして
たとえば
「〇〇寺の本堂は本当に立派でね~」
「〇〇寺の住職はとても徳の高い方だと思う」
「御住職のお経がとっても上手で」
「お庫裏さん(「くり」。住職の奥さんのことです)が良い方でね~」
「あそこのお寺は檀家さんたちがとっても良い方々で・・・」
最終的には「ハード面」の評価よりも「ソフト面」(人間性)に対する評価が強いでしょうね。
♢
以前お世話になっていた葬儀屋さんにいたとき
お葬式を終えられた方から相談されたことがあります。
「菩提寺を変えたいんだけど、良いところ教えて下さいませんか?」
実はこうした相談って、結構あったんですよね・・・
その理由をお尋ねすると
大体が御住職に対する評価、です。
「住職のお経が下手」はまだ我慢できるようです。
やはり御住職の『人間性』に起因するようです。
実はこの問題って、結構大変でしてね・・・(汗)
たとえば
同じ仏教のなかで他宗派に変わるのならまだいいんですが、同じ宗派の別のお寺へ、となると、これは結構面倒なんですよ。
だって
はっきり言えばですよ
お寺にしてみれば檀家さんは「お客様」なわけで、下世話な言い方をすれば「収入源」でもあるわけです。
その「お客様」が、同門である〇〇寺から△△寺に変わるとなると、△△寺は〇〇寺からお客様を“横取り”したという結果とも取られるわけです。
△△寺にはそんな気など無いとしても、です。
無論、檀家さんが遠方にお引っ越ししてしまった場合などは、これまでのお寺に事情を話して新しい在所となるエリアのお寺を紹介してもらうということはあります。
しかし同じエリアでとなると
〇〇寺と△△寺は接点があるわけで、寺同士で気まずいことにもなるわけなんです・・・
♢
結局は、ですよ。
こうした問題が発生してしまうこと自体に問題があるんだと思うんです。
お寺としてやるべきこと
お寺としてケアーすべきこと
を、そこの御住職が真摯に取り組んでいない、と取られてしまうことが問題なのかと。
いや、よく分かりますよ。
本当に大変なことなんだって。
でも
それを承知の上でその道を選んだのでしょう・・・?
♢
今、葬儀業界に対する世間の注目度が高まってきています。
と同時に、そこに絡んでくる「お寺」への目もシビアになってきています。
こうした現状を、お寺を管理する御住職方々がしっかりと認識することが大切なのかと。
昨今、「宗教離れ」「お寺離れ」もまた深刻な問題となってきているようです。
すべての宗教者は、この現状をどう打開するのかを真剣に考える必要があると思います。
私はカトリックですが
本当に素晴らしい御住職がいらっしゃることもよく知っています。
宗派は違えど「この御住職の考え方って本当に勉強になるなぁ」と感じる方もいらっしゃいます。
逆にそうでない御住職にお会いしたりすると(あ~あ・・・)とガッカリすることも。
誤解のないように申しますと
私は、世のお寺をケナしてるんじゃないんです。
むしろ、葬祭業に携わる人間の一人として、頑張ってほしいと思ってるんです。
以前にも申しました。
良いお葬式は葬儀屋さんが作るんじゃない。
それは御遺族であり、典礼を司る宗教者なんです・・・
すべての宗教者は
その宗教の「映し鏡」であるということをもう一度考えるべきではないかと、思うんですよね・・・
(今日は少々エラそうなことを言ってしまいました・・・<(_ _)>)
我が家と宗旨が違いましたけど、導師の説法が分かりやすく、また故人や遺族に対しての心配りに感銘してきました。
祖母の影響で説法を聞くのが好きです。
伝えかたってみんな違うんですよね。
・・・そうなんですよ!
様々なご縁でお通夜に弔問に出向いたとき(仮にそれが“お義理の弔問”だったとしても)、導師である御住職のお話などから、何かを感じ取ることが出来るんですよね。
私の場合は葬儀屋さんとして携わるわけですが、自分が今『生かされている』ということを認識します。
そして
それを無駄にしてはいけない、と。
「生」を大切にするからこそ「死」を扱うことが出来るのだと。
日本の精神的リーダーである自覚があってほしいと願います。
貴重なご意見を有難うございます。
このブログで何度も申しておりますが
お葬式とは、その宗教の最大の宣教の場であると信じて疑わないものであります。
カトリックも勿論そうですが
すべての宗教者は、ご自分の宗教の教えを広める役割を担っていらっしゃるはず。
“日本の精神的リーダー”というお言葉
大変に感じ入りました。