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ローマ教皇庁の掲げる指針について思う:追記

 
8月21日の記事について
私の永年の友人である牧政さんより、貴重なご指摘をいただきました。

結論から申しますと
昨年にローマ教皇庁が発表した、火葬・埋葬に関する指針を受けて
日本のカトリック司教団は、日本における葬送文化の実態を考慮して、本指針の『日本の教会への適応』について定めたのだそうです。

情報ソースのリンクを貼っておきますので、ご一読ください。

教皇庁教理省、死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針

教皇庁教理省『死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針』の
  日本の教会での適応について

上記にある通り
ローマ教皇庁の打ち出した指針について
日本のカトリック教会は、独自のガイドラインを設けたということです。



キリスト教専門の葬儀屋さんとして
先日の記事掲載は甚だ軽率でありました。
細かい裏付けも確認せずに記事掲載してしまい
無用なご心配をおかけいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます。







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# by dscorp-japan | 2017-08-26 23:02 | キリスト教 | Comments(4)

ローマ教皇庁の掲げる指針について思う

 
もう一年ほど前のニュースなのですが・・・

 → ローマ法王庁、火葬の新指針を発表 散骨や自宅保管は認めず

※ カトリック教会側の意向として
 「法王」ではなく「教皇」という表現を推奨しております。
  よってここでも「法王庁」ではなく「教皇庁」とします。


記事にあるように
教皇庁は「火葬後の遺灰(或いは遺骨)を海にまいたり自宅に置いたりしてはいけない」
と規定したというわけです。
他にも
「遺灰を親族の間で分ける(≒分骨)」
「遺品やジュエリーなどに入れるなどして保管する」
といったことも認めないとあります。

・・・う~ん。
特に火葬国である日本のカトリック信者にとっては、なかなかハードルの高いお話かとは思われますよね・・・
ただでさえ火葬が前提の国で
特に西日本エリアでは、遺骨の一部をお骨上げして、残りの遺骨は火葬場に任せるという「部分収骨」が一般的だったりします(もちろん事前に申し出れば、すべての遺骨をお骨上げすることは可能です)。


結局のところ
教皇庁の掲げる指針について、私たちはそこにある根源的な意味を理解する必要があるのではないかと思うんですね。
それはつまり
カトリック教会教義の根本にある「復活」という信仰です。


「信仰宣言(使徒信条)」という祈りの最後、私たちはこう唱えます。

「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます」

カトリック教会では
たとえ亡くなった後においても、その亡骸(ご遺体)もまたその人の人格の一部として重んじます。
何故なら
「終わりの日に復活するとき、その人は肉体をともなって復活する」とされるからです。
ですから
カトリックのお葬式の典礼には「遺体への崇敬」という項目があるんですね。
ご遺体とは、或いは遺骨もまた、そういう存在なのだということです。


※ ここからは、あくまでも私個人の見解です。

では何故
「散骨」や「宇宙葬」や「自宅安置」や「分骨」や「ジュエリー加工」がいけないのかと考えたとき
それを行う当事者たち(特にご遺族)の思いに「死者への尊厳」という認識がしっかりと根付いているのかどうかという一点に集約されるということなのではないかと思うんです。
「何故そうするのか」という、その根拠が大切なのだと。

「火葬したあとの遺骨の処遇に困る」
「納骨が面倒だから自宅に置く」
であってはならないのだ、と。

ですからたとえば
「亡くなった、愛する人と離れ難い」という思いで遺骨を自宅に安置するのなら、その意味合いは変わってくるのではないかと。
「自宅の片隅に小さな祭壇を設けて、そこに遺骨を安置して、毎日その前で死者のために祈る」
それならば認められてもいいのではないかと思うところなんですが。

終わりの日、神様が私たちを復活させて下さるとき
「遺骨のすべてが一箇所に集まっていないと復活させられない」ということではないのではないかと思うんです。
ニュース記事にもこうありますよね。
神がその全能性において遺体に新たな生命を与える妨げにはならない」
ただ
亡くなった後もなお、その「身体」であるところの遺骨もまた「その人の人格の一部である」ことには変わりないのだという認識は忘れてはならないのだ、と。
たとえそれが、遺骨のほんのひとかけらであっても。


私は常々
「人間の尊厳」という言葉を強く意識します。
特にお葬式に携わるとき、その思いを強く持とうと心がけます。
当然この「人間の尊厳」は死者にも当てはまることであり
亡くなられた方のご遺体に対してもまた「死者の尊厳」が大切にされるべきだと。

そしてその「思い」こそが
終わりの日、神様の計らいに適うことなのではないかと思うのです。


※ 追記
 本記事を掲載後
 ある神父様より、記事内容に補足説明が必要だと指摘されました。
 あらためてその記事を掲載しておりますので
 こちらをご覧いただければと思います。






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# by dscorp-japan | 2017-08-21 19:22 | キリスト教 | Comments(4)

ロボット導師、ですか

 
「ご導師、ご入場でございます。
本日読経を賜りますのは、真宗大谷派・Pepper導師様です。
ご参列の皆様方におかれましては、御低頭の上お迎えくださいませ」

・・・とか、開式のときにアナウンスされるのかなァ ^^;


   → ニュース記事はコチラ


・・・このニュース記事のタイトルを見て
ピンクレディーのデビュー曲を思い出したのは私だけ? ^^;
一方で
コンセプトの元ネタが『ロボット刑事K』じゃないかと疑ったのも私だけ? ^^;

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冗談はこのあたりでおしまい m(_ _)m



大切な方を亡くされたご家族それぞれ、様々なご事情がお有りかと思います。
ニュース記事にもありますように
菩提寺の無い方や檀家制度にとらわれたくない方など、たしかにいらっしゃることでしょう。

しかし、そこでいきなりPepper君が導師、ですか。
“ 彼 ”のアノ声で、ですか?


「お葬式の多様化」は、もはや変えることのできない潮流なのでしょう。
私もさまざまなお葬式の様式があって良いと思いますし
今後さらに、これまでの形式にとらわれない形で送りたい(或いは送られたい)というニーズも増えていくことなのでしょうね。

私は今回のニュースにある新しい提案を、完全に否定するつもりはありません。
そこにたしかなニーズがあるのであれば
その存在価値もまた有るということなのでしょうから。
でも、私が古い人間だからなのでしょうか
どうしても違和感を拭い去ることが出来ない思いがあります・・・


現在の私はキリスト教専門の葬儀屋さんですから
仏教のご住職やお上人様の読経や説法をお聞きする機会は殆どありません。
あるとすれば、知人やお世話になった方のお葬式に参列したときくらい。
とはいえ
これでも一応、約1000件あまりの仏式葬儀をお手伝いしてきた人間です。
そういう立場からすると
お葬式の際、ご導師が唱えられる読経や説法を拝聴するときは
(このご住職の読経は美しいなァ)
とか
(このご住職は本当に心をこめてお勤めいただいているなァ)
とか
(なるほど、故人やご家族のことをよく考えた説法をされているなァ)
とか
比較してしまうというか、そういう視点で判断してしまうところがあります。


私が現場で受ける印象がご遺族のそれと同じかは分かりませんが
司式者としてのご導師によって、そのお葬式に対する評価が大きく左右されるところだと思うわけです。

たとえ、ですよ?
どんなダメ葬儀屋さんのお手伝いだろうと、祭壇が汚れていようと
(もちろんそれはそれで絶対ダメなんですけど)
ご導師の素晴らしい読経や説法ひとつで、そのお葬式は一気に素晴らしいお葬式に変わるものなんです。

これだけは間違いない。
それだけ
お葬式を司る立場のご導師の存在って、大きいと思うんです。


・・・そこにPepper導師が来るんですか。
う~ん ^^;


ニュース記事では
「ちゃんと人間の副住職がいる」そうじゃないですか。
だったら
わざわざPepper君に読経させるのではなく、副住職が導師をした方が良いんじゃないの?とか思っちゃいますよね。

「副住職は住職ではない!」

じゃPepper君は住職なんですか?


なんだかよく分からないなぁ・・・






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# by dscorp-japan | 2017-08-17 00:00 | 葬儀 | Comments(2)

ポストモダン・ジュークボックスの音楽

 
皆様はお盆休み、いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
私はと申しますと
すでにお盆中のご葬儀をご依頼いただいておりまして、お休みはナシな感じ ^^;
ですからせめて
好きな音楽を聴きながら過ごすのであります。
今回はたくさんの音楽をご紹介いたしますので
お時間のある方はどうぞお付き合いくださいまし m(_ _)m

            ♢

さて。
寡聞にして、私はつい最近までこの『 Postmodern Jukebox 』のことを存じ上げませんでした。

・・・えっと
私がこの音楽ユニットのことを知ったきっかけは、恥ずかしながらBABYMETALの『ギミチョコ!』のカヴァーです (^^ゞ
そのカヴァ―・ヴァ―ジョンというのがこちらです。



因みに、原曲はこちら。




とってもユニークなアプローチでしたので、おおいに興味をそそられた次第。

私は
ジャズとか
フュージョンとか
ブルーグラスとか
オールディーズとか
ドゥーワップとか
チャールストンとか
とにかく、そういう類の音楽には全く疎いのですが
・・・でも嫌いじゃない ♪

ということで
この音楽ユニットがYouTubeにアップしている公式チャンネルを見てみると・・・

・・・あるわあるわ!
いろんなジャンルの音楽のカヴァー・ヴァージョンが!
とにかくとっても面白いので、いくつかご紹介させていただきます。


まずはドリー・パートンの『 Jolene 』。
日本ではオリビア・ニュートンジョンのヴァージョンが有名ですね。


(原曲はコチラ。ついでにオリビア・ヴァージョンがコチラ


次は
私の大好きなポリスの『 Roxanne 』。


(原曲はコチラ



ハードロックバンド:ガンズ&ローゼスの『 Welcome To The Jungle 』。


(原曲はコチラ

次。
マドンナの『 Material Girl 』。


(原曲はコチラ


・・・えっと、もう飽きちゃいました? (^^ゞ


次、カーディガンズの名曲『 Lovefool 』。


(原曲はコチラ


次は
映画『タイタニック』のテーマ曲『 My Heart Will Go On 』。
異なるヴァージョンがあるので、お聴き比べください。







(原曲はコチラ


次、ボン・ジョヴィの『 You Give Love A Bad Name 』。


(原曲はコチラ


・・・いい加減、飽きてきましたでしょうかね~ ^^;
ホントはもっとたくさんご紹介したいんですけれど、この辺で最後の一曲にしときます。


個人的にいちばん好きだったのが
リック・アストリーの『 Never Gonna Give You Up 』。
これは良い ♪


(原曲はコチラ

このガンヒルド・カーリングさんという方、恐ろしい才能ですよね!
素晴らしいヴォーカルの直後に
リコーダーやらトロンボーンやら、バグパイプを吹きこなすって・・・(驚)
実際にやってみりゃ分かりますけれど
相当の安定した肺活量がなければ、こんな風に演奏できるわけがないんです!
多分
いや、間違いなく「天才」です!

            ♢

・・・さて。
公式チャンネルを検索されれば
このほかにもたくさん、いろんな曲が楽しいアレンジで聴けます ♪


・・・あらためて、つくづく思うんですよ。
もちろん作詞や作曲も大切なんでしょうけれど
音楽って、楽曲のアプローチというかアレンジによって、その表情も大きく変わってくるんですよね~
アレンジひとつで、良くも悪くもなるというか。

ついでに申しますと
この音楽ユニットがBABYMETALの音楽を取り上げたというのも驚きです。
日本の楽曲として取り上げられているのは『ギミチョコ!』だけ。
それだけBABYMETALが、海外で注目されているということなのでしょうね ♪


・・・ということで、このお盆休み
『 ポストモダン・ジュークボックス 』の音楽が、皆様の一服の清涼剤になりますように。






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# by dscorp-japan | 2017-08-13 00:00 | 音楽 | Comments(4)

平和旬間中の24時間聖体礼拝

 
先日の記事でも申しましたように
現在日本のカトリック教会では、8月6日~15日までの十日間を『日本カトリック平和旬間』と定めて、特に平和について考え、また祈ることが推奨されています。

これにあわせて
カトリック名古屋教区では、名古屋市東区にある『カトリック主税町教会』の記念聖堂において、24時間×10日間の聖体礼拝が行われております。
この期間の毎日
午前十時からは「平和を祈るロザリオの祈り」
午後三時からは「平和を祈る主のいつくしみの祈り」
午後七時からは「平和を祈るミサ」
が行われております。

そして現在
カトリック主税町教会・記念聖堂の祭壇に安置された「聖体顕示台」が、YouTubeでライブ・ストリーミングで配信されております。

午後七時からはミサが行われる様子も視られます。

→ https://www.youtube.com/watch?v=gI64RcpkZNo

ミサ祭壇の中央に安置されているのが聖体顕示台です。
たとえこの場所に行かれなくとも
一緒にミサに与る思いで祈ることが出来るということです。


よろしければ
祈りの助けとしてご覧いただければと思います。







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# by dscorp-japan | 2017-08-11 17:50 | キリスト教 | Comments(2)

雑誌『AERA』8月7日号を読んで

 
娯楽小説一辺倒の私ですから
『AERA』なんて雑誌、滅多に手に取らないんですが・・・


表紙にこんな文言が謳われてると、そりゃさすがに手に取りますわね~

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・・・やっぱ要りませんか、お葬式 ^^;


「お葬式はもういらない」という表現から
名(迷)著『葬式は、要らない』を上梓された“アノ人”からケンカを売られたような気持ちで、仕方なくレジに持っていきましたよ。

(売られたケンカだもんなァ、受けて立つしかないかぁ~)

・・・で、読んでみたらやっぱり!
アノ人のコラム記事も載ってました・・・^^;


表紙には「大特集」とありますが
読んでみると、それほど「大」でもありませんでした(笑)
個人的な印象ではむしろ「小特集」くらいです。
もっといろんな情報が詰まっていると思っていたんですが。

それぞれの表題には、なかなかインパクトがあります。

「古い葬式よ さようなら」
「仏教ビッグバン」
「価格破壊のお葬式」
「お坊さん便も定着」
「葬儀も明るく個性的に」
「色鮮やかなLED仏」・・・

(ご興味のお有りの方は書店にGO!)

でも敢えて申しますが
正直、あまり有益な情報が書かれているとは思われませんでした。
仏教が岐路に立たされていて、様々な打開策を模索(&実践)されているというお話は興味深く拝読させていただきましたが
それ以外の記事に目新しいものは無かったと思います。


ホントはいろんな項目の記事に反論したいことが山ほどあるんですけれど
今回は敢えて、特集内にあった、例のアノ方のコラム記事にだけモノ申させていただきます (^^ゞ

            ↓

「0葬」唱える島田裕己さんが語るお葬式『大往生』で亡くなった人は葬儀ではなく、お祝いを


「お祝い」という単語を用いること自体は構いません。
でも、じゃ大往生されたご本人の為に
遺されたご家族はお葬式の代わりに、一体何をすればいいんでしょう?
「葬儀ではなくお祝いを」と仰る以上
お葬式とは異なる、何か具体的な提案があるのかといえば何もないし。

そしてご本人のご希望である「卒人式」。
ご本人による造語ありきのご提案としか思えないのですが・・・^^;
「人間を無事に終わりましたと、お祝いをしてもらう」って
やはりこの場合も、遺されたご家族やご友人は具体的にどのように「卒人式」すればいいのでしょう?

・・・何となくですが
仰っているイメージは「無宗教葬」や「お別れ会」と何ら変わらないと思うのですが。



実際にお葬式の現場に立つ人間として申します。
奇をてらう必要などなくとも
これまで通りのお葬式でも「お祝い」することは出来ます。
事実、これまで故人様を「お祝い」するお葬式を何度もお手伝いしてきております。
それが「卒人式」かどうかは分かりませんけれど
大切な人の「大往生」に際して、やはりその死を悼みながらも

「長らくお疲れさまでした」
「これまで本当にありがとう」
「今日は笑顔で『さようなら』だね!」

泣き笑いの顔で
最後には「よかったよかった」とご遺族が口々に語りあうお葬式を、私は十分「お祝い」と言えると思います。


さらに申しますと
どれだけ「大往生」だろうと「お祝い」だろうと
「大切な人が亡くなった」という現実の前に、人はやはり厳粛な思いになるものだと思いますし、またその思いを忘れてはいけないのだと思います。

お葬式のカタチに捕らわれる必要はありません。
でも
「お葬式」という名称を変えたところで
或いはそこで行われる式の内容が大きく変わったところで
(たとえそこでケーキカットをしようがクラッカーを鳴らそうが)
そこに集うご家族や友人知人の「思い」は何も変わることなどないのです。


私は
大切な人が亡くなって、故人と交わりのあった方々が時間を割いて故人の元に集った時点で、それはすでに「お葬式」だと思っております。
何故なら
「お葬式」とは、人の「思い」だからです。






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# by dscorp-japan | 2017-08-06 00:00 | 葬儀 | Comments(8)

8月6日の『聖書と典礼』より

 
1981年、当時の教皇:ヨハネ・パウロⅡ世が来日されて以降
日本のカトリック教会は、毎年8月6日~15日までの10日間を『日本カトリック平和旬間』と定めて、特に平和について各自が考え、また祈ることを推奨しています。
つまり
今日からの10日間はそういう「時」であるということです。


先ほど
私の所属するカトリック布池教会の夕方のミサに与ってきました。
ミサというのは平日にも行われるのですが
特に主日(日曜日)のミサにあたっては『聖書と典礼』というリーフレットが用意され
ミサに与る信徒たちは、この『聖書と典礼』に掲載される聖書の箇所や祈祷文を用いて祈ります。

で、今週の『聖書と典礼』のコラムに
カトリック名古屋教区長:ミカエル松浦悟郎司教様の文章が掲載されていましたので、今日はこの文章を転載させていただきます。


今、選択のときー「日本カトリック平和旬間」

今、世界も日本も危機的状況の中にあります。自国中心主義が広がり、極右勢力の台頭による難民、移住者への排斥、また紛争やテロが頻発するなど、世界全体が暴力的になりつつあります。その背景には、想像を絶する富の格差(上位八人の大富豪と下位三重六億人の総資産が同じ)があり、またそこへ軍需産業の利権がからむなど、歯止めが効かなくなってきています。
残念ながら、日本はその流れのなかに組み込まれるというより、積極的にその傾向へと突き進んでいます。多くの人が「ぼんやり」させられているうちに、日本政府は平和憲法の精神無視して軍事力一辺倒の政策で突き進んでおり、市民への監視、情報コントロールを強力に進めてきています。国連特別報告者が「メディアの公平性や独立性」「プライバシーや表現の自由」について数次にわたって強い懸念を表明していることは記憶に新しいところです。
こうした現実の中、ヨハネ・パウロ二世の広島での平和メッセージが今、現実味を帯びてきています。「各国で、数多くのより強力で進歩した兵器が造られ、戦争への準備が絶え間なく進められています。それは、戦争の準備をしたいという意欲があるということであり、準備が整うということは戦争開始が可能だということを意味し、さらにそれは、ある時、どこかで、何らかの形で、誰かが世界破壊の恐るべきメカニズムを発動させるという危険をおかすということです」(広島『平和アピール』1981年2月25日)と。このメッセージから36年経ち、教皇フランシスコは世界が「散発的な世界大戦」(2017年「世界平和の日」メッセージ)に入っていると指摘しています。今、方向を変えないと世界は大変な状態になっていくことでしょう。
この現実の中に教会は派遣されています。私たちを派遣し、共に歩んでいるキリストはどこに向かって歩めと呼びかけているのでしょうか。その声を聴きつつ現実を直視し、流れに身を任せるのではなく、自覚し、決意し、平和を選び取っていきたいものです。個人として、教会として。



・・・皆様それぞれ、様々なお考えがおありのことでしょう。
それはそれでいいと思います。
大切なことは
私たち一人ひとりが真剣に「考えること」なのではないでしょうか。
この十日間、私も私なりに考えていきたいと思います。






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# by dscorp-japan | 2017-08-05 23:23 | キリスト教 | Comments(4)

夏は午前!

 
以前にも同様の記事を挙げたかと思うんですが・・・


今日は
(ウチのようなちっぽけな葬儀屋さんには珍しく)同日程&ほぼ同時刻のお葬式が三件重なりました。
お葬式の時間はすべて午前中 or お昼またぎの時間。
ウチの一方的な都合で申しますと、本当は時間帯がバラけてくれると助かるんですが ^^;
でもやはり、いちばんはご遺族様方々のご意向に沿って時間設定をします。

・・・で
特にこの暑い時期、私どもは必ず早めの時間をお勧めするんですね。
その理由は「午後のお葬式はさらに暑いから」。
もちろん午前中だって十二分に暑いわけなんですけれど
午後はさらに暑さに拍車がかかる、と思うわけなんです。
式場となる教会に冷房設備がないところ(稀にあるんです!)の場合は
もう、何が何でも「午前中にしましょう!」と強くご提案させていただきます。
もちろん、火葬場の空き状況や教会サイドの都合と照らし合わせたうえでの話ですが。

冷房設備があっても
参列者が熱中症で倒れられることってあるわけです。
(実際に何度もそのような状況を経験してきております)
特にお歳を召された方々にとって
この猛暑は間違いなく、身体的なストレスが相当かかるに違いないのであります。


幸いなことに
今日、私がお手伝いさせていただいたご葬儀の式場は、冷房がとてもよく効く教会でしたので助かったわけなのですが
それでもご出棺時には、たとえ一時的にであっても屋外に出るわけです。
ご遺族様をはじめ、お見送りに出てこられた参列者の方々が口々に仰ってました。
蝉の大合唱が聞こえるなか
空を見上げて「うわぁ~暑い!」
お見送りのために屋外に出る時間なんて、ものの5分もありません。

でも皆様ほぼ全員、その手にはハンカチやハンドタオルがありましたよ ^^;


ですから皆様
暑い時期のお葬式は「午前中」
これです!


ところで。
昼夜を問わず鳴き続ける蝉の声って、耳にこびりつく感じがしませんか?
私だけかもしれませんが
夜中に寝るときも耳の奥に蝉の鳴き声がこびりついちゃってて
もう何だか、蝉なのか耳鳴りなのか分かんなくなっちゃうんですよね・・・






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# by dscorp-japan | 2017-08-01 14:28 | 葬儀 | Comments(2)

私は何故、司祭職の道を諦めたのか(後篇)

 (前記事の続き) 

・・・お断りしておきますが
そんな崇高な話でもなけりゃ、大したオチも無い話ですんでご了承くださいな・・・ m(_ _)m


「罪深い自分を変えたい」
特に
「エロの呪縛から解き放たれたい」(笑)
そして
「他者を愛せない自分を何とかしたい」


その対策として当時の私は
「他人が幸せになるのを手助けすることで、自分も他者を愛することが出来るようになれるんじゃなかろうか」
そして
「カトリックの世界に没頭する(=身を置く)ことで罪から解放されるんじゃなかろうか」
と考えるようになったのでした。


そこでいきなり(神父になりたい!)と。

・・・ムチャクチャ短絡的ではあります(笑汗)

当時の私
神父になることがどれほど大変なことか、そしてどれほど責任を伴うことか、全く分かっておりませんでした。
ちょうど高校三年生、つまり進路を決める時期ではあったわけですが
(キリスト教系大学の「神学部」に入れば良いんじゃないの?)くらいに簡単に考えていたんです。

で、私は父親に頼みました。
「神父になりたいから神学部に行くわ」

父親からは激しく叱責されました。
「神父を舐めんな!」

父もまた厳格なカトリックの家庭で育ったカトリック信者なのですが
母と結婚して以降、父は一切教会に行かなくなりました。
(その理由は家族だけの秘密です)
それでも、そんな父の中にもカトリック司祭の崇高さみたいな意識はあったらしく
学業も疎かにしている不肖の息子が神父になるなど笑止千万!ということだったようです。

「エラそうなことを言う前に勉強しろ」
「そういうことを言うのは成績が上がってからにしろ」
「神学部に入れば(神父に)なれるなんて簡単なものじゃない。
そもそも神学部に入ることがどれほど大変なのか、オマエは分かっていない」

反対されると余計に反発するのが10代の青年です。
(だったら絶対神父になったるわ!)と意気込んだわけですが
いかんせん、どうにもお勉強だけは好きになれない ^^;
机の前には座るのですが
本来開くべき教科書や参考書はそっちのけで、やっぱり哲学系やら宗教系の本ばかり読んでしまうわけです。
そして何より
カトリック司祭になるためには具体的にどうしたらいいのか、神父様に相談することもしておりませんでした。
この頃はタバコの本数も増えたよなァ~(ってオイ!)

・・・で、当然の結果として浪人です。

「浪人は一年まで。その先は面倒見きれん」

親のすねかじりで予備校には入ったのですが
まァ~遊び呆けますよねそりゃ ^^;
毎日「行ってきまァ~す」と家を出てはパチンコ屋に行ったり
(高校時代のバイト代で、そこそこ貯金はあったのです)
同じ予備校生たちと麻雀ばっかりやってたり
(今も全然強くないですけど)
(神父になりたい)という思いはあったものの、具体的な行動は一切なかったんですね。

そんななか、同じく浪人していた同級生の女の子がいて
何やかんやと経緯があって、お付き合いするようになったんです。

「そんなことするヒマがあったら勉強しろ!」
・・・仰る通りなのです。

でも私
その子のことが本当に大好きだったんです。
実は私、その子のことが高校三年のときから好きでした。

彼女とお付き合いする前の段階で
私は(珍しくも)本気で真剣に悩みました。

(神父になるつもりなのに女の子と付き合っていいのか?)

つまり私のなかで
どちらかを諦めなければならないという選択に迫られたわけです。


・・・はい。
悩んだ末に、私は彼女とのお付き合いを選びました(笑)
私、女の子とお付き合うするの、これが初めてだったんです。
「オクテ」といわれればその通りなのですが
私のなかで「異性とお付き合いすること=結婚前提」との思いがあったんで(そういうところだけカタブツだった)。
そして何より
彼女のことを「心から好き」という自覚はつまり(自分も他者を愛することが出来たということじゃないのか)という喜びもたしかにあったんです。

かくして
彼女とお付き合いが始まった時点で、司祭職という選択肢はバッサリ消えたという次第であります。



・・・これが、私が司祭職を諦めた理由であります (^^ゞ
つまらない話でゴメンナサイ m(_ _)m


・・・まァ今となってはすべて過去の話なわけですが
この歳になってつくづく思うわけです。
あらためて
自分なんぞが神父にならなくて良かった、と。
・・・いやもちろん
なれるかなれないかを決めるのは神様なわけですが
仮にでもなってしまっていたら、私は間違いなく日本のカトリックの歴史に汚点を残すような神父になっていたに違いないという、強い確信があります。


最初に申し上げましたでしょ?
だって私「煩悩の塊」なんですから(笑)






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# by dscorp-japan | 2017-07-27 19:34 | あったこと | Comments(4)

私は何故、司祭職の道を諦めたのか(前篇)

 
・・・とある方よりご質問がありましたので。

っていうか
ただ何とな~く(なりたいかも)と思ったくらいで「目指していた」「志していた」なんて言葉にするのもおこがましいわけですよ。
だから自分自身
「諦めた」と言うほど真剣だったのかも分かりませんしね。

・・・まァね
先に結論から申しますと「煩悩を断ち切れなかった」ということですよ、ハイ・・・


私の場合
何となく(神父になりたいかも)と思ったのが、高校三年の頃だったと記憶します。
地元じゃそこそこの進学校といわれる高校に進学したものの
私の場合、実技四教科の内申点で滑り込めたようなものですから、高校に入ってからはずっと地上スレスレの低空飛行だったわけです(笑)
元々勉強なんて大ッキライだったし
好きな音楽をやったり聴いたりして、好きなお絵描きをして、のんびり楽しいことだけやって過ごしたかったわけです(つまり今と一緒!)

そんななか(一応)多感なお年頃だった私は
「人間の幸福とは何ぞや」とか「生きる意味とは?」とか、生意気にも薄っぺらな哲学的なことを考えるようになりました。
学校帰りには毎日のように本屋さんに行っては哲学っぽいことが書かれてる本を読み漁ったりしてまして
そのうちに今度はいろんな宗教の本を読むようになりました。

私は “ ボンクリ(Born Christian=幼児洗礼) ” のカトリックでしたが
それまでは殆ど教会にも行っておりませんでした。
幽霊部員ならぬ “ 幽霊信者 ” でありました。
自分の洗礼名が「ペトロ」ということだけ認識していて、あとはカトリックに対して何ら思い入れもなかったわけです。
ところが様々な宗教の本を(あくまでも薄っぺらァ~く、ですが)読み漁っているなかで
(やっぱオレ、カトリックが良いや ♪)と思うに至ったわけです。
それ以降
こんどは当時の自宅からほど近い教会のミサに通うようになりました。
(それが今も私の所属する『カトリック布池教会』であります)
ミサに出ていても最初は何のこっちゃさっぱり分かりませんでしたが
通い詰めるうちに、私なりに少しずつ理解していったんだと思います。

青臭い当時の私のなかには
常に「罪の意識」というのがありました。
その罪にもいろいろあったわけですが
私のいちばんの罪の意識というか、自分には「他者を心から愛する心が欠けている」という思いがありました。
元々が冷めた人間だという自覚がありましたし
本来大切であるべき家族に対しても、それほどの思い入れも持てませんでした。
人並みに好きな女の子もいたりしましたけれど
それとて(ただの性欲の対象なんじゃないか?)という自問がありました。

・・・悶々と考えるなか
いつしか私は(罪深い自分を変えたい)という思いが強くなっていったのでした・・・

(続く)






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# by dscorp-japan | 2017-07-25 00:12 | あったこと | Comments(4)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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