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カテゴリ:キリスト教( 204 )

私のクリスマス

 
クリスマスが終わって
お仕事されていらっしゃる方々は皆、一気に年末モードといったところでしょうか。
ウチのようなちっぽけな会社にも
取引業者さんがご挨拶に来られたりしてます。

・・・で
結構皆さん、尋ねられるんです。

「キリスト教徒さんのクリスマスってどんな感じですか?」

だから私も正直に答えますよね。

「日中は普通に仕事して
夕方から教会に行って
午後8時からの司教ミサに与って
帰り道の途中でラーメン屋に入って
家に着くのはもう夜中だから、しばらくテレビをぼんやり観て寝ましたよ」と。

・・・まァそりゃ
私の場合は独り身ですからこんなもんですよね ^^;

しかし
家庭のあるスタッフに聞いても、大したイベントは無いようですよ。
大体からして
世間の皆様が “ クリスマスディナー ” や “ クリスマスパーリィ― ” に興じる時間
クリスチャンは礼拝やミサに出ていて、帰途に就く頃は夜も更ける頃です。
それからあらためてディナーやパーリィーする元気は無いみたい ^^;

世間の皆様のような楽しいイベントがある方って
・・・まァ少ないんじゃないでしょうか。


私が青年だった頃からの話をいたしますと・・・

当時私は所属教会の侍者長だったので
午後7時からの洗礼式・8時の司教ミサ・10時のミサ・夜半0時のミサのすべてで、侍者としてミサの奉仕者をしてました。
その後はそのまま教会にお泊りして、翌日午前のクリスマスミサでも侍者で奉仕でしたから、終わったときはもうクタクタでしたよね。
葬儀屋さんで言うところの夜勤明けみたいなもんですよ(笑汗)

侍者を退いてからだって
今度は毎年、教会周辺道路で車両整理に駆り出されてました。
イヴの夕刻から午前1時過ぎくらいまで
寒空の下、ひたすらクルマの誘導に奔走してました。
だからあの頃は毎年、クリスマスの後は風邪ひいて寝込んでましたよね (><)

普通に「ミサに与って帰れる」ようになったのは、ここ10年くらいですよ。


・・・だからですね。
少なくとも私の場合、クリスマスなんて大っ嫌いだったわけですよ (-_-;)

侍者の頃は
腕を組んで教会を訪れる数多のカップルを妬み
そのカップルから「写真撮って下さい」と言われては作り笑顔でシャッターを切り
夜中クタクタになって、ようやく用意された豚汁で暖をとり
寝不足の目をこすって翌日のミサ奉仕をして・・・

駐車整理のときは
クルマで押し寄せる方々から駐車場が無いことを責められ
強引な路上駐車をする黒塗りベンツたちに移動をお願いしては怒鳴られ
一方じゃ違法駐車を取り締まるお巡りさんからも指導を受け
挙句、翌日は風邪で職場を休んでヒンシュクを買い・・・

・・・嫌いにもなりますわそりゃ (><)


齢50を超えて
ようやく平常心でクリスマスを迎えられるようになったという次第デス。






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by dscorp-japan | 2015-12-27 01:22 | キリスト教 | Comments(2)

『愛の湧き出る泉』 西経一神父

 
皆様、主の御降誕おめでとうございます!
この拙いブログをご覧いただいている皆様の上に
神様の豊かな恵みと慈しみ、そして慰めがありますように m(_ _)m

さて。
今日は『カトリック新聞』のクリスマス号に掲載された、我が畏友:西経一神父様の文章をここでご紹介して
お祝いの代わりとさせていただきます。


『愛の湧き出る泉』 西経一神父(神言修道会)

 愛の湧き出る泉、それをかなしみといいます。
かなしみを深く味わう人、かなしみを身をもって思い知る人、それを愛の人と呼びます。
かなしみは引き裂かれるその裂け目から湧き出ます。
引き裂かれる痛みから愛は生まれるのです。
別離はかなしみを生み出し、かなしみは、やがて、愛の母となります。
別離のかなしみを知らない人が愛を知ることはありません。
わかたれる傷口の痛みを知ることのない人が愛を知ることはないのです。

 神のひとり子は、愛の人としてお生まれになりました。
神のひとり子は、その誕生のときから、すでに、かなしみの人でありました。
神でありながら、神であることからわかたれて、人となられたのです。
かなしみを知る愛の人は、また、泊まる場所もなく野宿していた羊飼いたちのかなしみを、身をもって知る方でありました。
それゆえ、羊飼いたちと同じく泊まるための場所を持たない者として、飼い葉桶にその身を置かれたのです。

 神のひとり子がお生まれになった時代、人々はエルサレムに代表される都市生活および定住生活になじんでいて、遊牧はもはや主たる産業ではありませんでした。
福音書に記されてある、羊飼いたちが働いていた「地方」というのは、人々の利害関心が集中する都市あるいは農作地域に対して、そうした関心の外にある、入植者のほとんどいない土地を意味しています。
その「地方」、つまり当時の社会の中心から切り離された、文字通り「はずれ」の周辺部で、夜通し、野宿しながら働いていたのが羊飼いたちだったのです。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の知らせは、まずもって、人々の関心の中心から「はずれ」ている周辺へと追いやられ、泊まる場所もなく野宿しながら、夜通し働いていた羊飼いたちに告げられました。
わたしたちもまた、その「はずれ」の場において自分自身を見い出さねばなりません。
その場に身を置いてはじめて「天には栄光、神にあれ。地には平和、み心に適う人にあれ」という天使の歌声も耳に届くことでしょう。

 さあ、中心からわが身をはずしましょう。
立ち去りましょう。
立ち去り引き離された痛みとかなしみのただ中に、引き裂かれたその裂け目の中にこそ、飼い葉桶は置かれてあるのですから。
さあ、みずからを裂くことによって平和と一致を与えられる主キリストの祭壇をともに囲みましょう。
食卓では心をこめてケーキを裂きましょう。
わが身を裂くことをプレゼントといたしましょう。
身を裂く痛みに咲く花の名を、愛というのです。







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by dscorp-japan | 2015-12-25 00:00 | キリスト教 | Comments(8)

泣き部屋

 
「泣き部屋」というのがあります。
「母子室」と呼称する場合もあります。

種々のイベントが行われる会場などで
乳幼児やまだ落ち着きのないお子様方が他に迷惑をかけないよう、メイン会場とは別に設置されたお部屋、ということです。

この「泣き部屋」、キリスト教会にもあるんです。
すべての教会に必ずある、というわけではありませんし
その造りも様々ではありますが、これがある教会が少なくありません。
多くの場合、礼拝堂や聖堂の一角や続き部屋のような場所にあって
ガラス張りなどになっていて本堂内をみることが出来るような造りが多いです。
場所によっては泣き部屋内にもモニタースピーカーが設置されていて
式場内の音声が聴けるような仕組みになっています。
つまり
泣き部屋にいながらにして、礼拝やミサに参列できるというわけです。


この「泣き部屋」ですが
お葬式の際には大変に重宝するんですね~

お亡くなりになられた方のご遺族ご親族には、小さなお子様がいらっしゃることが少なくありません。
通夜や葬儀の最中
お母様に抱かれたお子様がむずがって泣きだして、お母様が恐縮されるという場面を何度も拝見しております。
何とかすぐに泣きやんでくれれば一安心のですが
お母様が焦っていらっしゃるのがお子様に伝わるのか、こういうときに限ってさらに大声で泣き出されたりするものです。
或いは乳離れされて、走り回りたい盛りのお子様。
お葬式の間、ケラケラと笑いながら式場内を駆け回るなんてこともありますよね。
それはそれで微笑ましい、と言えなくもないんですが・・・

赤ちゃんならまだいいんです。
親御さんが抱いて、一時式場を外されればいいのですから。
落ち着きのないお子様は、なかなか手強いものです ^^;

そんなときのために「泣き部屋」です。
すべての泣き部屋に防音措置がとられているわけでもありませんが
少なくとも壁一枚、ガラス一枚の隔たりがあるだけでも大きく違います。
何より、親御さんが安心できるんですよね。


再度申しますが
泣き部屋がすべての教会にあるとは限りません。
しかし
小さなお子様をお持ちの親御さんがお葬式に参列される際は、是非一度ダメ元でお尋ねになられてはいかがでしょうか。

「子どもがいるのですが、どこか別室はありますか」







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by dscorp-japan | 2015-10-28 00:27 | キリスト教 | Comments(0)

洗礼を受ける

 
・・・実は
私のガッコのセンセ時代の教え子のひとりが、カトリックの洗礼を受けることを前提とした、カトリック要理の勉強をはじめたんです。


私は彼女(つまり女子です)を勧誘などしておりませんので誤解無きよう (^^ゞ
基本的なスタンスとして
私の側から “ 神様を信じましょう ” 的な話題を振ることは絶対にありません。
そういうのって、虫唾が走るほど大ッ嫌いですので。


「あのさァ先生
私、カトリックに興味があるんだけど」

ふぅん。

「洗礼受けるのって、どうすればいいの?」

っていうかオマエ、マジで受けたいの?

「なんか受けようかなぁって思って」

じゃ~とりあえず神父様を紹介してやるわ。


・・・という流れ。

さて。
カトリックの洗礼を受けるためには、一応それなりの準備が必要とされています。
特に成人洗礼の場合
ある一定の期間(私の知る限りにおいて、凡そ半年~一年間くらい)
神父様から、ローマ・カトリックの基本的な知識とか考え方などを説いてもらいます。
これが先に述べた「カトリック要理」です。
で、この準備期間を通して
洗礼を受けるにあたっての、自分自身の意思を確認するんですね。
だから途中下車も全然アリ。
迷うようなら先送りにすればいいし
止めたいと思えばいつでも止められます。
誰にも、何にも強制されるものではないのですから。

(せっかく始めたんだから続けなきゃ)
とか
(何とか洗礼を受けるまでは)
とか
そんな風に思う必要は無いですよ、と。

(むしろそんなふうに思うなら一度立ち止まった方が良いと思います)


大体ね
「洗礼を受けたから神に救われる」とか
「洗礼を受けたから信仰心が芽生えた」とか
そんなもんじゃないと思いますよ私は。
たしかに洗礼はカトリックの秘跡のひとつに数えられます。
もちろん非常に大きな意味のあることです。
でも一方で
信仰の本質って、洗礼を受けるまでのプロセスに、そして洗礼を受けた後の生活にこそあるのだと思うんですよ。

・・・え
「オマエが言うな!」って・・・?

いや逆にネ
私のようなダメ信者だからこそ言えることだってあるわけですよ (^^ゞ


ところで。
その教え子から面白い質問がありました。

「それでさァ先生。
授業料って要るの?」

・・・要らねェよ(笑)

「だァって個人授業だよ?
神父様の貴重な時間を私だけのために割いていただいて、申し訳ないよぉ」

・・・なるほどね。
幼児洗礼の私は、そういうところまで頭が回りませんでした (^^ゞ

オマエがそう思うんなら
何か美味い食い物でも持っていったら?(笑)
そして、もしもこのまま洗礼を受けたなら
そのときは信者の一人として教会を支えてくれれば神父様は喜ぶよ ♪





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by dscorp-japan | 2015-07-24 22:46 | キリスト教 | Comments(10)

おフザケもたいがいに ^^;

 
今回は言い訳をさせていただきます・・・<(_ _)>


今日、カトリック名古屋教区司教座教会において
ミカエル松浦司教様の司式で、神父様方の司祭叙階50周年・25周年
並びに修道者方々の修道生活50周年・25周年を祝うミサが行われました。

カトリック教会において
司祭叙階後、或いは修道生活開始後25周年を『銀祝』、50周年を『金祝』、60周年を『ダイヤモンド祝』と呼びます。
長きにわたっての司牧活動・奉献生活を讃える、お祝いであります。

“ 50周年 ” って
考えてみるとスゴイことですよね(25周年もすごいけど)。

私個人に照らし合わせてみますと
現在私が50歳(あとちょっとで51だけど)ですから、私が生まれたときから司祭或いは修道者として、その生涯を捧げてこられたということです。

素直に、頭が下がります・・・ m(_ _)m

            ♢

そんななか
私の畏友(というか悪友?)であるフランシスコ・ザベリオ椎尾神父様も、司祭叙階25周年を迎えられました。

で、今から約一か月前のこと。

カトリック名古屋教区では毎年
金祝・銀祝を迎えられた神父様や修道者の皆様は、ミサ式次第にご本人の言葉でご挨拶の文章が掲載されるんですね。
ご自身のこれまでを振り返られ
あらためての決意と感謝の言葉などが語られるのが一般的なのですが・・・

「オカダくん(=私)
私はオカダ君の絵で行こうと思うんだよね」

・・・何ですと???
原稿ではなくて「絵」ですか?

「そう。
例の、僕の “ ゆるキャラ ” で」


椎尾神父様が司祭叙階され
私の所属するカトリック布池教会に赴任された年に、私が彼の似顔絵を作ったんです。
当時はこれをTシャツにプリントして、バザーで販売したりしたものです(笑)
当時は冗談半分に描いたものだったのですが
なぜか私の絵が一人歩きし始めて(笑汗)今じゃ椎尾神父様のゆるキャラみたいな感じになってるんですね。


文章じゃなくていいの?と確認したんですけど
「大丈夫」と仰るばかり。

ということで
頼まれたら、そりゃ描きますわな (^^ゞ

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椎尾神父様の洗礼名が『フランシスコ・ザベリオ(ザビエル)』ですので
あの有名な絵をパクって(笑)描いたわけです。


例のごとく、〆切ギリギリに原稿を提出して・・・
今日のミサに出席された方々の手には、この絵が印刷された式次第が・・・(汗)

「私がこの絵を描いた」などという注釈はありません。
・・・しかし、知ってる人は知っている。

さて。
ミサ後に開催されたお祝いパーティーで
やはり何人もの方々からお声をかけられました。

「なかなか面白いイラストですね」
「やっぱりオカダさんが描かれたんですよね」

・・・お言葉自体はこんな感じでしたけど
暗に
(思い切ったことしたわね~)
といったニュアンスが感じられた気が・・・ ^^;

だから私
お声をかけられるたびに頭を下げましたよ。

「申し訳ございません!
神父様のお祝いにあのようなおフザケをやらかしまして」


・・・でもね
ここでは敢えて言わせてください。

頼んできたの、椎尾神父様だし!


「じゃ~もっと真面目なの描けばよかったじゃないか」

・・・椎尾クン、そんなの望んでないんだもん・・・

「言い訳するな!オマエ次第だろ!」

・・・私が悪うございました <(_ _)>






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by dscorp-japan | 2015-07-05 21:10 | キリスト教 | Comments(8)

教会を選んでみる

 
コメント欄で
私が(現在所属する)カトリック布池教会を選んだ理由について尋ねられましたので
今回は「教会の選ぶ基準」みたいなことで考えてみようと思います。

・・・おそらくですが
教会を選ぶにあたっての主な基準って、大体以下のような感じじゃないかと思うんですね。

① 自宅から教会までの交通の便
② 祈る場所としての「教会」が自分(の感性)に合っているか
③ “ お試し ” で行ってみての印象
④ 教会共同体としての大きさ
⑤ 司牧者(牧師・神父)個人に対する印象・好感度

まずは①について。
(自分はこの教会に通うんだ)と決める際に最も重要視されるのは、やはり交通の便ということではないでしょうか。
自家用車で通うのか。
公共交通を使うのか。
教会(或いはその近隣)に駐車場はあるのか。
長く通うことを考えるなら
やはり公共交通の利便性は外せないような気もします。
自家用車といっても、いつまで運転できるか分かりませんし。
とはいえ
自宅を引っ越すことになるという可能性もあるわけで・・・

次に②と③。
これはそれぞれの価値観や感性によるものが大きいかと思います。
(この教会なら自分が祈る際に集中できる気がする)
(この教会はとっても荘厳で美しい)
或いは
(ここの信者さんたちはとても優しく迎えてくれた)
(ここなら私みたいな初心者でも受け入れてくれそう)
・・・理由は何でも良いんです。
ここはご本人の主観で、ご自分に合うと思われる教会を選べばいいと思います。

問題は④と⑤、でしょうか。

まず④について。
教会規模の大小には、それぞれの傾向があるように思います。
・・・要は信徒の数、ですよね。
一概には言えませんけれど
信徒数の多い教会って、信徒個々人の存在感がやや希薄に感じられると思います。
逆に信徒数の少ない教会の場合
相性が合えば、とてもアットホームな環境になるのではないかと。

・・・これはどちらが良いということではなくて
ご本人が「教会に何を求めているのか」ということではないでしょうか。
(私はできるだけ目立たずひっそりと教会で祈りたい)
という方は大きな教会の方が良いかもしれません。
(出来るだけ信徒の方々と関わりを持ちたい)
という方なら、小規模な教会で皆さんと仲良く関わりやすいかもしれません。

・・・でもまァ
そこそこ長く通えば、教会規模の大小にかかわらず顔は知られていきますけど (^^ゞ

で、⑤です。
大前提として
教会司牧者(牧師・神父)には “ 転勤 ” があるということを知るべきです。
(この先生の説教が素晴らしいから)
(この神父様はとっても優しいから)
・・・と、その教会を選ばれたとしても
いつの日かその司牧者は他の教会に異動するはずです。

教会とは、そういうところだということ。

            ♢

・・・じゃあどうすればいいのか。

仮にあなたが、どこかの教会へ通おうかと思い悩んでいるとします。
その場合おそらく
あなたの脳裏には、あなたご自身の知る、どこか具体的な教会が思い浮かんでいらっしゃると思うんです。

思い浮かんでいるのは、教会の名前だけかもしれない。
おぼろげな建物の印象かもしれない。
学生の頃
通学バスの車窓から見えた教会かもしれない。

・・・ならば
とりあえずはその教会の門をくぐってみてはいかがでしょうか。

性に合わなければ
(何かイマイチだなァ)と感じたのであれば
通う教会をかえればいいだけのことです。
或いは教会へ行くこと自体、止めたって良いんです。

            ♢

因みに「何故私はカトリック布池教会に所属することを選んだのか」について。

自分の意思で教会へ通おうと思い始めた当時(高校生の頃デス)
布池教会が住んでいた家から近かったから。
・・・ただそれだけデス (^^ゞ

その後私の住処は名古屋市内を転々としておりますが
まァ~通い慣れてるし
少なくとも今はクルマで通えてるし
って感じで、半ば惰性で続いている感じ、デス (^^ゞ

“ 住めば都 ” かどうかは分かりませんが
何やかんやと文句言いながらも通い続けるのもまた「教会」である、と ^^;






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by dscorp-japan | 2015-06-30 00:00 | キリスト教 | Comments(2)

教会維持費の話

 
私が大学生だった頃
所属するカトリック布池教会の、当時の主任司祭(今の野村司教様デス)から言われたことがありました。

「オカダ君はいいよ、負担しなくても。
その代わりオカダ君には身体で奉仕してもらうから(笑)」

・・・負担とはつまり『教会維持費』です。
私の知る限りにおいて
多くのキリスト教会における教会維持費(簡単に言えば『献金』)は、強制的なものではありません。あくまでも信徒それぞれの自由意思に委ねられるものだと思います。
その額も、各教会によって一応の目安のようなものはあるのでしょうが、これも強制されるものではなくて、それぞれの生活の負担にならない程度で良いとされていると思います。

で、当時の私はというと
やはり学生でしたし親とも別居しておりましたので、毎月教会に献金するほどのゆとりはありませんでした。
だから神父様の言葉に甘えて
ミサ献金の際に100円玉を投げ入れる程度で、それ以外の献金はしておりませんでした (^^ゞ

「でもホントは少しでも負担してくれた方が良いんだけどネ。
金額は少なくても良い。
それこそ、毎月10円でもいい。
負担してくれること自体に意味があるんだよ」


で、時は経ち・・・
私も(一応)社会人の一員として
仕事をさせていただき、その報酬を得られる立場になって思うようになりました。

(あのとき神父様が言ってたことはこういうことだったんだ・・・)

つまり
自分が得た収入の一部を教会に献金することで
教会を、本当の意味で自分の「家」のような存在として認識するようになるということだったんですね。

神父様の仰る通り、金額の多寡ではない。
「自分のお金」で負担することで
たとえば、宗教施設としての教会に対する思い入れが変わるんですね。

(この柱の、ほんの一部分は自分が負担してる)
(このエアコンの電気代の一部はオレが出してるぞ)

・・・このように考える私は低俗な人間なのかもしれませんが ^^;
実際のところ
そう考えることで、教会に対する思い入れが強くなったのは事実なんです。
「ここは “ オレの ” 教会だ!」
というと言い過ぎかもしれませんが
(ここはオレの家でもあるぞ、ちょっとくらいは)
という意識は持っても良いのかなぁと・・・


よく例えられることですが
この関連性は「国民として納める税金と政治に対する関心度」と同じだと思います。
ただひとつだけ違うのは
国や自治体は半強制的に(笑汗)税金を徴収するのに対して
教会は、あくまでも個々の自由意思によって献金を受けるという点。
「自動引き落とし」や「給与控除」とは違うということです。

・・・そこには『能動性』があるということです。
この能動性こそが
信徒個々の、教会に対する意識を強めるのだと思うんですね。


「まるでオマエ
しっかり献金してるみたいに言うなぁ」

・・・献金するようになった一方で
今度はミサに出る頻度が減りまして・・・
つまりミサ献金を出す頻度が激減しているという・・・<(_ _)>






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by dscorp-japan | 2015-06-26 00:00 | キリスト教 | Comments(2)

カトリック名古屋教区・新司教様着座式

 
有難いことに今日はお天気にも恵まれ
新しい司教様をお迎えするに相応しい日となりました ♪

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・・・正直、お天気は良すぎるくらいでした(笑汗)
今日の日差しは真夏を彷彿させるもので
日陰にいないと熱中症になりかねないほどの暑さ、ではありました。


あらためて。
今日、6月13日
カトリック大阪教区・補佐司教であらせられましたミカエル・松浦悟郎司教様が、カトリック名古屋教区長として着任され、着座式が執り行われました。

お噂はかねがね、という方でして
信徒間での、次期司教様候補・筆頭候補のおひとりでもありました。
カトリック大阪教区でも大変に人望のあつい方でいらっしゃったようでして
当日は大阪教区信徒の皆様も駆けつけて下さったようです。

参列者数、凡そ1000人。
式場となった名古屋教区カテドラル・カトリック布池教会でも
さすがにその全員が聖堂に入ることは叶いません。
ゆえに今日は聖堂の下階にある地下ホールも開放して
ミサの様子をモニターで映してました。

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地下ホールでの様子


それでも全員がお掛けいただくことは叶わず(汗)
立ったままの信者さんも大勢いらっしゃいました(もちろん私も)


ミサのなかでは
もちろん、松浦司教様がお話し下さいました。
お話を伺って
あらためて、素晴らしい司教様をお迎えできたことを実感した次第です。
バイタリティに溢れ
特に、世界平和に対する強い信念をお持ちの方と感じました。

・・・そして、ハンサム(笑)


さらに、私たち信徒に対するお気遣いもいただいたようで
聖体拝領の際は、聖堂の信徒ではなく地下ホールの信徒たちの元へお越しいただき
松浦司教様自ら、御聖体をお配りいただきました m(_ _)m

松浦司教様の人気を裏付けるエピソードとして
地下ホールでの聖体拝領が終わり、松浦司教様が聖堂へ戻られる際・・・
何と、地下ホール信徒の間から割れんばかりの拍手が・・・!(驚)


ミサ終了後
まずは司教団のみで記念撮影。
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そして今度は
司祭団も加わっての記念撮影。
a0153243_16351773.jpg

・・・カトリック大阪教区の皆様へ。

このたびは、素晴らしい司教様を名古屋教区へ送り出していただき
心より感謝申し上げます。
おそらく、いや間違いなく
大阪教区の皆様におかれましては、決して手放したくない司教様だったことと思います。
かくなるうえは
私たちカトリック名古屋教区信徒として、精一杯松浦司教様を支えていきたいと思います。

松浦司教様の仰る
正義と平和が、カトリック大阪教区にありますように!






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by dscorp-japan | 2015-06-13 17:03 | キリスト教 | Comments(4)

“ 神様目線 ”

 
今日、私のガッコのセンセ時代の教え子から連絡がありました。

彼女はある、かなり重篤な病に侵されていて
その病のことで、私は何度か相談を受けていました。
(相談といっても、ただ悩みを聞くだけだったんですが)

先日彼女は病巣診断のための手術を受け
今日、その結果を聞いたのだそうです。

「先生(=私)!奇蹟が起こったの!」

聞けば
彼女の病巣が「消えて」いたのだそうです。
主治医の先生もしきりに首をかしげたそうなのですが
現実に、彼女の病巣は消えていたのだ、と。

私は、医療の難しいことは全く分かりません。
ただ何にせよ、喜ばしいことであることはたしかであります。

「これって絶対奇蹟だよね!?」

            ♢

・・・一般的な解釈として言われるところの「奇蹟」かどうか、私には分かりません。
それが医学的に起こり得る出来事なら
「常識では起こり得ない不思議な出来事」としての奇蹟ではない、のかもしれません。

ただ
(これは彼女にも電話で話したのですが)
私に言わせれば
この世の中で起こる森羅万象、すべてこれ「奇蹟」ということになります。
そこに神の意思が働いていると考えたとき
身の回りで起こる出来事すべては「奇蹟である」ということになる、と。

これをカトリック教会では「摂理」とよびます。

「神の意思が働いている」
     ↓
「すべての事象は神の御摂理である」

と解釈します。


自身にとって良い結果だったから「奇蹟」というのは早計なのであって
仮に思い通りの結果で無かったとしても、それもまた神の御摂理である、と。
大切なことは
良い出来事もそうでないことも「神様はすべて見ておられる」「見守っていて下さっている」と信じること。
仮に今、自身に降りかかってきている出来事が良くないことでも
「神様は間違いなく私を愛してくれている」「気にかけてくれている」と、強く信じることだと思います。
そして
きっと最終的には良いことに転じることを願いつつ、神に信頼を置くことだと思います。


人間は時間軸に縛られた存在です。
誰も皆「今」の先にある「未来」が不安です。
もちろん私も、です。
今、自分の身に降りかかっていることが、どうやって好転するのか不安で仕方がない。
どんなに慰められ、励まされようと
不安なものは不安なのです。

しかし私たちが「神」の存在を認めたとき
その「神」は、必ず時空を超えた視点で私たちを見守ってくださっているに違いないのであります。
その「神」に信頼を置くことで
私たちは勇気付けられることもあるのだ、と・・・


・・・しかし良かったね~、Iさん。
キミの必死の祈りを、神様が聞き届けて下さったのかもしれないね。
いわゆる「奇蹟」か否かは別としても
それが「摂理」であることは間違いないと思うよ。

だから今はただ、素直に神様に感謝しなさいな ♪






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by dscorp-japan | 2015-06-04 17:26 | キリスト教 | Comments(4)

ペンテコステ(聖霊降臨)の祝日

 
東方教会を除く多くのキリスト教において
今日はペンテコステ(聖霊降臨)の祝日であります。
プロテスタント教会では『ペンテコステ』と呼び、カトリック教会では『聖霊降臨の祝日』と呼ぶのが一般的です。

特にカトリック教会で捉えられている聖霊降臨についてはコチラをご参照ください。
 → http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleB/b_pentecost.php

教会の典礼としては非常に大切な祝日なんですけど
ただいまウチはお葬式のお仕事が立て込んでいて、主日礼拝とかミサとか出てる余裕が無い。
まァ、サボる言い訳が出来たんでそれはそれで良しなんですけど (^^ゞ

            ♢

「一体『聖霊』とは何ぞや?」

・・・正直、私もよく分かりません ^^;

聖書には「炎のような形をした舌」とか書いてありますけど・・・何それ。
もちろん私はそんなもの見たことないし
「舌」とか言われたって、全然イメージ湧かないんですけど。


・・・ただですね
(ここからはあくまでも個人的な見解です)
聖書の記述はともかくとして、個人的な勝手なイメージは
「神様は間違いなく私たちを見守ってくださってるんだよ~」
という、教会としての具体的な「神の愛の提示」ということなんじゃないかと思ってます。

私は
キリスト教って “ ご利益宗教 ” ではないのだと思ってます。
「神様は私たちの願いをすべて叶えてくださる」
なァんて都合の良い宗教ではないんじゃないの? と。

でも
「叶えて」はくれないこともあるけど(それもしょっちゅう!)
間違いなく、私たちの身勝手なお願いや希望を「聞いてる」のは間違いない、と。
キリスト教の信仰は
「神は間違いなく私たちすべての人間を愛して下さっている」ことを信じる、信頼することが前提だと思っています。
だから
私たちの思いや願い(たとえそれが利己的なものだとしても)を込めたすべての祈りに、神様は耳を傾けて下さっていると信じることが、キリスト教の信仰じゃないかと。

「聞くだけ聞いて叶えてくれないって、その神様ってどうなのよ?」

・・・まァ時々私もそう思いますよ。
空を仰いで「一体何してくれてんねん!」と愚痴ることなんてしょっちゅうです ^^;


でも、私はこう考えます。

きっと神様にしてみればね
私たちの祈りや願いのすべてを叶えることなんて容易いことなんだと思うんです。
なんたって「全能」っつうくらいですから。
でも、どうやら神様には神様の考えがあるらしい。
私たちの理解を超えた、なんかよく分からんけど考えがあるみたいだぞ、と。

「お前らが苦しんでるのも悲しんでるのも知ってるし
お前らの願いも祈りも、全部ちゃんと聞いてるって。
そりゃお前らにすりゃキッツイこともあるけど
最終的には悪いようにせんから、オレのこと信じとけ!」

・・・なァんて声が聞こえたなんてことはございませんけど (^^ゞ


神に信頼を寄せることで
身の回りに起こるすべての事象を受け入れ、その意味を考えることができる。

その
神への信頼の「助け」こそが『聖霊』なのではないかと、勝手に思ってマス。


「だったら空見て愚痴る必要ないじゃん」

・・・だァからァ
私は信仰が足りないって認めてるじゃないですかぁ(笑)






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by dscorp-japan | 2015-05-24 11:53 | キリスト教 | Comments(0)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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