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カテゴリ:キリスト教( 207 )

『 いのフェス名古屋2016 』 終了~

 
名古屋初開催の『いのフェス2016名古屋』
無事に終了いたしました~ ♪

『魅力にかける街』第一位という称号をいただいた、ここ名古屋での開催(笑汗)
そりゃ~ウチのホームグラウンドですから出展したわけです。
正直なところ
本業のお葬式もご依頼いただいているなかでの出展でしたので、結構キツいものがあったのですが (^^ゞ
まァでも、何とか無事に参加することが出来た次第であります。

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ブースに鎮座するのはわが社の “ エース ” S君であります(笑)


「ん?彼がエース?」

・・・失礼な!
私がブースに腰掛けても、どなたからもお声がかからないのに
S君がブースに陣取った途端、こうなるんですから ♪

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お若い女性からの問いかけに鼻の下をのばすS君(笑)


写真でもお分かりの通り
キリスト教葬儀の模擬祭壇なんかも展示してみたわけです。
ごく簡単な飾り例ではありますけど
祭壇生花はいつも通りの “ ディーズ流 ”。

こんな感じでお客様のご来場をお迎えしていたわけですけど
今回もまた
「柩の中には入れないのかしら?」みたいなご要望が、存外に多かったデス ^^;


・・・皆さん、入りたいもんなんですか???
別にただの「箱」なんですけどね・・・ ^^;

まァそのあたりは今後の課題ということで、鋭意検討させていただきます m(_ _)m


いずれにせよ地元開催ということもあって
結構お顔見知りの方々からのご来場もあり、いろんな交流が出来ました ♪

・・・そうなんです。
きっかけは何であれ、交流が出来ることにこそ意味があるんです。
そりゃウチの場合
会社としての宣伝効果を目論んでいることは否定いたしません。
でもそれ以上に
教派の違いを乗り越えて、お互いがお互いを認め合ったうえで、フラットな感覚で交流することにこそ『いのフェス』の本質的な意義があると思うんですよね。

このようなきっかけを作って下さった
いのフェス実行委員会の皆様に、心から感謝申し上げます。
そして
この輪が少しずつでも広がっていくことを、心よりお祈りいたします m(_ _)m



ところで。
イベント終了後のお花は次のお葬式で「使い回すのか」ですって?

・・・失礼な!
イベント参加者の皆様に、お好きな花をお好きなだけお持ち帰り頂きましたよ~♪







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by dscorp-japan | 2016-11-06 00:00 | キリスト教 | Comments(4)

訃報

 
REQUIEM AETERNAM DONA EI,DOMINE

カトリック名古屋教区司祭、ヨハネ・ボスコ 由井滋神父様は
10月30日午前5時45分、肺炎で入院先の名古屋医療センターにおいて心不全のためご帰天されました。
(中略)
由井神父様は、その全生涯を弱い立場の方々のためにささげ尽くされました。
神様に召される直前まで、ご自分がかかわっていた方々のことを気遣っておられました。
享年74歳でした。
由井神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

 なお、通夜・葬儀は以下の通り執り行われます。
 また、ご香典、ご供花などは固くご辞退申し上げます。



   通 夜         10月31日(月)午後7時30分より
   葬儀ミサ・告別式    11月 1日(火)午前11時~午後1時
   式 場         カトリック布池教会 大聖堂
               名古屋市東区葵1-12-23

(以上、カトリック名古屋教区公式広報より抜粋)




まさに青天の霹靂、でした。
大変にショックを受けております。
未明の第一報からずっと、泣きそうなのを堪えるのが大変です。

もう30年以上のお付き合いですが
ただの一度だって、由井神父様が怒ったり顔をしかめたりするのを見たことがありません。
皆さんが「あの神父様は天使だ」と評されます。
まったくその通りだと思います。

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きょう、ひとりの偉大な天使が天国に帰られました。
心よりお願いいたします。
ヨハネ・ボスコ 由井 滋神父様のためにお祈りください。







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by dscorp-japan | 2016-10-30 14:28 | キリスト教 | Comments(10)

再度『いのりフェスティバル名古屋2016』の告知です

 
開催日まで、あと一週間となりました!
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 ※ 『いのりフェスティバル名古屋2016(以下:いのフェス名古屋)』
   に関する詳細情報は公式HPをご覧ください。


2011年より東京や大阪などで毎年開催されてきた『いのフェス』。
数年前より「是非名古屋での開催を」という声が上がっていたとお聞きします。
そしてこのたび、満を持して!
はじめて、ここ名古屋での開催の運びとなったということであります。
私どもも開催初年度より(ひっそりと)参加させていただいておりまして
今回は私どものホームグラウンドであるこの地での開催に際しまして
「名古屋での開催にウチが出展しないわけにはいかないでしょ!」
ということで、憚りながら(笑)出展させていただく運びとなりました。

当日は
弊社の提供するキリスト教葬儀の模擬祭壇(略式)の展示と
お葬式や終活に関する様々なご質問にお答えするブースを設けまして、皆様をお出迎えさせていただきます。
もちろん相談料は無料ですし
こちらからご相談者の個人情報などをお尋ねすることもございません。
お気軽にお声をかけていただければと存じます m(_ _)m


「キリスト教のイベントだからクリスチャンでなければ入場できない」
なんてことはもちろんございません!
そして
妙な宗教勧誘みたいなアホなこともありませんのでご安心を(そういうの、私自身が大ッキライですので)


行楽の時季ですから、皆様それぞれご予定がおありかとは存じます。
でももしお時間がよろしければ、是非足をお運びいただければと存じます。


   『いのりフェスティバル名古屋2016』

     開催日   2016年11月5日(土)午前11時~午後4時半
     場 所  『ウィンクあいち』10階・大会議室
           愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38
     入場料   無 料

      ※ 駐車場は近隣のコインパーキングをご利用ください






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by dscorp-japan | 2016-10-29 00:00 | キリスト教 | Comments(3)

『隣人愛』

 
今更ながら『隣人愛』。

この言葉を額面通りに理解すると
「身近な人に対する愛情(とその行い)」といった意味かと思います。
「あなたの身近な人には優しく愛情を持って接しましょうね~」ということですね。

「ふむ、そりゃそうだ。
そうあるべきだし、そうありたいものだ」

・・・そう考えはしても
それで終わり、といえば終わり。

でも
その本質的な理解って、なかなか出来てなかったりします。
いや、もちろん私だってそんなもんですけどね・・・ (^^ゞ

            ♢

これは、とあるカトリック司祭のお話です。

その神父様は以前
名古屋の、とある地域のご老人たちを集めて聖書のお勉強会を開いていらっしゃいました。
これはその神父様の完全なプライベートな取り組みでありました。
参加者のご老人は年を追うごとに増え続け
最終的には50名を超えるほどのご老人が、その神父様のお話を聞くのを楽しみに集まっていらっしゃいました。
そしてそのご老人たちのなかには
貯蓄もなく収入もないことから、生活保護を受給しながら細々と暮らしていらっしゃる方もありました。
神父様はそれら生活保護受給者であるご老人たちに
ご自身のお金で安い食材を買い込んでは渡していらっしゃったんです。
何年もの間、ずっと。
私は、何度もその買い物に付き合ったことがありました。
時には私もカンパしようとしたのですが
彼は頑なにそれを拒否しました。

「これはオレの気持ちなんだ。
お前はお前の方法で考えろ」

ある日、その神父様が私に言いました。
「ご同業(つまり神父様)から
『そんな風に周りに施していても際限がないでしょう。
すべての人を助けることなんて出来やしないのに』って言われちゃったよ」

たしかに
ひとりの人間が他者に「奉仕する」「施す」ことには限界がありますよね。
同業者の神父様が仰ることも一理あります。

「でもな
オレはオレの目に触れる、オレの周りにいる人を助けるのみなんだ。
『際限がない』からといって諦めたら、誰も何もしないじゃないか。
それが『隣人愛』ってもんだろ」

そのときはじめて
私は『隣人愛』という言葉の本質を、少しだけ理解できたような気がしたのでした。
それまでの私は
「自分の周りの人には優しく愛情を持て」などと言われても
(じゃ~自分の周りの人以外の人はどうなんだ?不公平じゃねェか)
などと考えたものです。

・・・でも、そうじゃないんですね。
私たちひとりひとりが
私たちの周りにいる人たちに対してだけでもいいから
困っている人に、私たちそれぞれのやり方で手を差しのべればいいんですよね。
そしてその輪が広がることで
最終的に「誰もが助け合い、助けられる」世界が生まれるということなんですね。

1人の人間に出来ることの限界を考える必要などない。
私たち皆が、1人の人間として出来ることをすればいい。

            ♢

何故このようなお話をするかと申しますと
昨日私がお手伝いさせていただいたご葬儀で、ご遺族代表の方によるご会葬御礼のお話がこれに似たお話だったのでした。

その故人様は児童養護施設『麦の穂学園』の会長・横川満雄様でした。
横川様は若かりし頃、カトリック司祭になる希望をお持ちだったとのことです。
しかしながら健康上の理由でそれが叶わず
ならばということで、行き届いた環境にない子どもたちの支援に乗り出されたということです。

ご挨拶されたのは
満雄様のご長男であり『麦の穂学園』の園長でいらっしゃる横川 聖様でした。

「父が常に大切にしていたことは『隣人愛』でありました」

親に見捨てられたお子さんや
親との関係が芳しくない環境にあるお子さんはたくさんいます。
そのすべてのお子さんを助けることが出来れば良いのですが
児童養護施設とは申しましても、その支援に限界はあります。
すべての子どもたちが充分な支援を受けることが難しい状況もあるでしょう。

支援を受けられる子と、そうでない子。
そこに不公平は生まれる。
では、支援を諦めるのか。

・・・そうじゃないんですね。

横川満雄先生は
ご自分の出来る限りのことを、ただ精一杯なさったのです。
それがご自分の役割だと、固く信じて邁進なさってこられたのです。
『隣人愛』の輪が広がることに希望を持って
その(敢えて申しますが)小さな担い手のひとりとして
目の前にいる子どもたちひとりひとりに手を差しのべ続けられたのです・・・


横川満雄先生のお柩には
小さな園児たちがクレヨンで書いた、拙い、しかしとても尊いお手紙が入れられました。

それはまぎれもなく
「お父さん」「おじいちゃん」へのお手紙だったのでした。






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by dscorp-japan | 2016-10-26 00:00 | キリスト教 | Comments(8)

マザー・テレサ 列聖式

 
曲がりなりにもカトリック信者である私です。
このニュースを取り上げないわけにはいかないでしょう。

( → ニュース記事


列聖式の模様がこちらです(かなり長いです)




・・・マザー・テレサについて
今さらのように私ごときがご説明する必要などないでしょう。

ただ、敢えてひとつだけ申しますなら
マザー・テレサの大きな活動のひとつが、私たち葬儀屋さんのお仕事に大いに関連するものであったということです。
マザー・テレサは『死を待つ人々の家』において
入所者それぞれの信じる宗教を尋ねたうえで、その入所者が亡くなられた際は本人の信仰する宗教の典礼に則った葬儀で弔ったということです。
殊更にカトリック教会の「神」を押し付けることなく
あくまでも入所者個々人の信仰を尊重し、葬儀においてもその信仰を反映させるという方針であったということです。

・・・私は、ひとりの葬儀屋さんとして
マザー・テレサのこの行いに大きな意味と深い意義を感じております。
私はマザー・テレサの、この行いのなかに
「死者を弔う」という行為の本質があるのだと、強く確信しているものであります。


もしかするとマザー・テレサご本人は
今回の列聖について、それほど大きな感慨は抱いていらっしゃらないのかもしれません(ノーベル平和賞受賞の際と同じように)。
しかし一方で今回の列聖は
いま世界中で生かされている私たちひとりひとりにとっての、ひとつの指針として示されているような気がいたします。


聖マザー・テレサの
他者をいたわる心、慈しむ心が世界中の人々の胸に深く沁みわたりますように。








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by dscorp-japan | 2016-09-05 00:00 | キリスト教 | Comments(6)

『いのフェス名古屋』開催!

 
いよいよ正式発表です!



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・・・今をさかのぼること5年
2011年に、第一回目の『いのりフェスティバル2011』が開催されました。

ちょうどその少し前
我が盟友であり、兵庫県でキリスト教専門葬儀社「シャローム式典社(現:『株式会社シャローム』)」を運営される高見晴彦さんと知り合いまして、
ほんの軽い気持ちで(笑)参加させていただいたのがはじまりでした。
それ以来
高見さんと私は『CCFI』として(『いのフェス神奈川』以外)毎回参加させていただいております。

キリスト教各宗派の垣根を超え
また、旧来のキリスト教的固定観念に囚われない自由な発想で、参加者それぞれが好きなことを発表するという場所であります。

・・・さて。
この『いのフェス』が、いよいよ名古屋開催の運びとなりました!


開催日:2016年11月5日(土) 11:00~17:30

会 場:愛知県産業労働センター『ウィンクあいち』
    (〒450-0002 愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38)

入場料:も・ち・ろ・ん 無料!






・・・えっと
宣伝しておいて何ですけど
まだ私、参加するかどうか確定しておりません (^^ゞ
でも、もちろん前向きに検討しております。

興味のお有りの方
是非遊びに行ってみましょう~ ♪






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by dscorp-japan | 2016-08-17 00:11 | キリスト教 | Comments(4)

野生に還ろう!

 
この時期、多くのキリスト教会では
教会学校(=チャーチスクール・CS)の子どもたちが「サマーキャンプ」と称して、海へ山へと繰り出しているようです(はるさんのブログをご参照ください)


私も若かりし頃、所属する教会の教会学校スタッフに名を連ねておりまして
この時期ともなると、毎年子どもたちの引率として参加しておりました。
・・・ま~私の場合
専ら子どもたちと一緒に遊び呆けてるだけだったんですけどネ~ (^^ゞ

懐かしいなァ・・・
クッソ暑い、中途半端な都会の喧騒を離れて
土と、木と、水と、虫(←汗)と触れ合って
多少のケガなんて怖がらずに思いっきり野生に戻る感じって、普段は体験できないことじゃないですか。

っていうか
昔以上にそういう機会って減ってきていると思うんですよ。
聞くところによると
いまどきの家族旅行の行き先って “ 某夢の国 ” だったり “ 某映画系遊園地 ” だったりするらしいじゃないですか。
でなければ、いきなり海を渡っちゃう感じ?

もちろんそれがダメとは申しませんけれど
たまにゃ「自然のなかに身を置く」という経験って、貴重だと思うんですよね~


昨今ではサマーキャンプへの参加人数が減ってきているようです。
学校の部活動もあるだろうし
学習塾の夏期講習みたいなのもあるんでしょうけれど・・・
・・・何だかなァ・・・

ウチのスタッフのひとりは
私の教会学校時代の “ 教え子 ” だったりします。
彼、いまでもその当時のことをしっかり覚えてます。
そういう思い出って、きっと一生モノだと思うんです。

・・・今の子どもたちにも
是非そんな経験をしてもらいたいなァ~と思う次第デス。






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by dscorp-japan | 2016-08-11 00:06 | キリスト教 | Comments(2)

『 家族のなかで私だけがクリスチャンです。私のお葬式がどのようになるのか心配です 』

 
『 あなたの意思を、出来るだけ具体的にご家族と所属教会に表明しておくことが大切です 』


 「家族のなかで自分だけがクリスチャン」という環境にある方は少なくないと思います。このような方々にとって、ご自身のお葬式は心配の種でしょう。結論から申しますと、ご自身のお葬式をキリスト教式で行いたいという希望が間違いなく叶えられる保証はない、と言わざるを得ません。
 よく「公正証書遺言を作成してそこに自分の葬儀に関する希望を記しておけば、法的拘束力があるから安心だ」と思われがちです。しかし、法的拘束力が伴うとされる公正証書遺言に記載されていても、ご自身に関する葬儀の希望は、法律上の効力が生じない事項となります。あくまでも「本人の希望が記載されている」に過ぎないととらえられるということあります。それでも「公正証書遺言に書かれているのだから」ということで、相続人(≒ご家族)がその意思を尊重してくれるだろうと期待できるかもしれませんが、必ずしもお葬式を執り行う前の段階で公正証書遺言を開封してもらえるという保証もありません。

 以上のようなことから個人的にお勧めするのが、昨今様々なメディアでも取り上げられております「エンディングノート」の作成です。もちろんエンディングノートに法的拘束力はありません。しかし事前にこれを作成して、ご家族のなかでも特に信頼出来る方にこれを託しておくことで、あなたの希望が叶えられる可能性は高まると考えられます。そして可能であれば、エンディングノートに記した内容を、所属教会の牧師(司祭)にも自筆文書で託しておかれるとよいでしょう。

 エンディングノートを作成するうえで大切なことは、ご自身のお葬式を執り行う上での手順を出来るだけ具体的に記しておくことです。ご家族がクリスチャンでない以上、キリスト教葬儀をどのように進めればいいのか、ご家族には分からないだろうからです。

 ・ご自身が亡くなった場合、まずどこに連絡すればいいのか。
 ・お葬式はどこで行いたいのか。
 ・葬儀屋さんはどこに頼めばいいのか。

 特に重要なのが「どこに連絡すればいいのか」という点で、基本的には所属教会の牧師(司祭)を窓口とされるのがいいでしょう。先に申しましたように、事前にご自身のエンディングノートに記載した内容と同様の文書を牧師(司祭)に託しておかれれば、教会サイドもよりスムーズに対応することが出来るでしょう。そしてまたクリスチャンでないご家族に対しても、適切なアドバイスをしていただけることが期待できると思われます。
 最近ではクリスチャンを対象としたエンディングノートも販売されております。この点も踏まえて、所属教会の牧師(司祭)にご相談されることをお勧めいたします。





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by dscorp-japan | 2016-07-04 00:00 | キリスト教 | Comments(2)

教皇・フランシスコによる刷新

 
ローマ・カトリック教会の現教皇・フランシスコ(以下:パパ様)がまたひとつ
新しい教会の指針となり得る発言をなさったとのことです。
(ニュース記事はコチラ

パパ様はこれまでにも
離婚信者・再婚信者に対する寛容な姿勢を示されたり
女性聖職者解禁の検討を約束されたり
これまでのカトリック教会の(良きにつけ悪しきにつけ)伝統を打破する発言をされていらっしゃいます。

おそらくパパ様は
これまでカトリック教会が定めてきた様々な障壁を出来る限り取り払って「世界中のあらゆる人を神様は愛して下さっている」という、ただ一点に照準を合わせた司牧をお考えなのではないでしょうか。

様々なご意見があることは存じております。
そのうえで
私個人としては、パパ様の方針に(いまのところ)100%同意するものであります。

            ♢

若かりし頃の私は
かなり保守的なカトリック信徒だったと思います。
決してストイックではなかったものの
「是は是、非は非」というスタンスだったと思います。

しかし私も歳を重ねるなかで、それなりに様々な経験をしてきました。
その「経験」とは
端的に申しますなら「生きていくうえで(仕方なくも)積み重ねてきた数々の罪」と言い換えることができると思います。

「カトリック信徒、かくあるべし」
それはたとえば十戒であり
カトリック教会が歴史とともに育んできた戒律であり
カトリック信徒としての「理想像」であります。
理想は理想として
これからもある程度堅持されていくべきでしょう。
「出来る限りこうあると良いよね」
という指針はあって然るべきでしょう。

しかし現代社会に生きる私たちは
カトリック教会の掲げる理想と現実とのギャップに、誰しもが大なり小なり悩みを抱えているのではないでしょうか。
私たちひとりひとりの抱える、教会の提示する理想と現実社会の間にある様々な矛盾が
これ即ち「罪である」と断罪されることによって
(自分は神の子として似つかわしくないのではないか)と自責の念にかられ、その結果として神の救いに対する「絶望」へとつながるとするなら、これは大きな問題だと思うんです。

イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコによる福音 2章17節)



私たち人間は不完全な存在です。
もとより不完全な私たちなのですから
不完全な私たちをこそ、カトリック教会は受け入れるべきなのではないかということです。

パパ様が仰った「キリスト教徒は同性愛者に謝罪するべき」というお言葉は
不完全な私たちが、また不完全な他者を「自分と全く同じ不完全な存在」として認め合うことを提示しているように思います。
これは
同性愛者が「不完全」という意味ではなく、同性愛者もそうでない人間もまったく同等の「不完全な存在」である、という意味です。

            ♢

若かりし頃の私は
自分のことは棚に上げて、他者を裁くようなところがありました。
ところが
それまで私が裁いてきた様々な「罪」を私もまた犯すに及び、罪を犯す人間の思いや苦しみ、痛みを学んだように思います。

「自分が犯したから相手も許すなんて、都合がいい」

・・・たしかにその通りなのです。
しかし
不完全な私たちは、そうして学んでいくしかないのだと思うのです。


主の祈りにある一節
「私たちの罪をおゆるしください。
私たちも人をゆるします」


ここでいう「ゆるす」という言葉は
「受け入れる」「認める」と言い換えることが出来るかもしれません。

・・・つまりパパ様は
教会はこれまで以上に
あらゆる人間を「受け入れます」「認めます」と仰っているように思うのです。






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by dscorp-japan | 2016-06-28 00:00 | キリスト教 | Comments(2)

主のご復活をお祝い申し上げます

 
イースター(復活祭)であります。
私たちキリスト教徒にとって
一年でいちばん大切なお祝いの日であります。

さて。
そして昨日
復活徹夜祭のミサにおいて、私のガッコのセンセ時代の教え子のひとりが、カトリックの洗礼を受けました。


常々申しておりますように
私が他者に対して、積極的にカトリックの洗礼を受けるように勧めることは決してありません。
・・・そういうの、大嫌いなので。

ただ相手から
「キリスト教の勉強がしたい」
「カトリックの洗礼を受けたい」という意思表示があれば、教会の神父様を紹介することはありますが。

もっとも
私をみて「洗礼を受けたい」などと仰る御仁には
「私を手本にしてというなら、もう一度よォ~く考えろ!」と言います。
「オマエでさえクリスチャンなんだからオレだって」
と仰るお方には・・・返す言葉が無いわけなのですが (^^ゞ


今回の教え子、元々カトリックの家系の人間ではあったのです。
ただ
これまで本人はカトリックに触れる機会が無かったようなのですが
どうやら本人も歳を重ね(失礼ッ)いろいろと思うところがあって、カトリック要理の勉強をしたいと思い至ったということのようです。

どうやら本人は
「自分のような人間は洗礼を受けるに値しないのではないか」という思いを抱いているようですが・・・
「そういう人にこそ神は寛容である」ということは申し上げたい。
そのように考える人こそ洗礼を受けるに値する人間なのだと、私は思います。


洗礼を受けられる方に対して
私がいつも申し上げることは、ふたつです。

「謙遜である」ということ。
神に対しても、人に対しても。
出来得る限り、常にその意識を忘れないこと。
謙遜であるということは「受け入れる」ということです。
あらゆる事象に、必ず神様の意思が介在するのだと意識できれば
すべてに対して謙遜でいられるはずだ、と。

もうひとつが「祈りを忘れない」こと。
私の考える祈りとは
「神に向き合うこと」「神に話しかけること」だと考えております。
(お叱りを受けるかもしれませんが)
私は「教会の定める祈りを欠かさず果たすべし」などとは思っておりません。
「毎週日曜は教会へ行け」とか
「毎日ロザリオを一環やれ」とか
そんなの私、全然やってませんし (^^ゞ

自分の思いと言葉でもいいじゃないですか。
その、心からの語りかけの対象が神であればいいのだと。


「謙遜であること」
「祈りを忘れないこと」
・・・このふたつを続けてるうちに、ですね
きっとあなたは、ごく自然に神様を近くに感じられるようになる。

すると
神様に泣き言が言える(笑)
神様に愚痴ることができる(笑)

これが結構使えるんですよォ~ ♪

何たって私
それが出来るってことだけで、不良カトリックを続けていられてるわけですから ^^;


・・・全然アドバイスになってねェや・・・(><)






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by dscorp-japan | 2016-03-27 00:00 | キリスト教 | Comments(12)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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