D’s(ディーズ)さんのぶろぐ

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カテゴリ:キリスト教( 207 )

私がなぜカトリックなのか。

私の場合、父方が代々続くカトリックの家系でして、私が生まれて間もなく(私の意思など関係なく)洗礼を受けさせられました(これを『幼児洗礼』といいます)。
ところが洗礼を授けておきながら、私の両親は私を一向に教会へ連れていくことがありませんでした。
つまり、私の両親はそれほど熱心な信者ではなかったということです。
自分がカトリックで『ペトロ』という洗礼名であることは知っていましたが、その他のことは何も知らないし何もしていませんでした。

ときは流れ、私が高校二年生の頃。
いろいろと考えるところがありまして、この頃学校帰りに毎日のように本屋に入り浸って、宗教書や哲学書を読み漁っておりました。
色々な考え方を、若いなりに吸収したかったということです。

仏教とは何ぞや?
イスラムって何?
キリスト教はなんでこんなに血塗られた歴史なの?

で、結局自分で出した結論が「カトリックに決めた」でした。

私の潜在意識の中に、元々の自分の宗教を擁護する意識があったのかどうかは分かりません。
でもとにかく、この頃から本当の意味でのカトリック信者になった、と自覚しています。

人間にとって宗教は必要なのか、私は分かりません。
ただ私にとっては必要だったということだと思います。
もっと言えば、自分にとってはカトリックが『都合が良い』ということなのかもしれません。
或いは単純に「好き」というだけかもしれません。

・・・ひとつだけ言えることは、私の中にある『原罪意識』を救ってくれるのがカトリックである、ということだけは間違いありません。
幼い頃から常に(自分は悪い子)(自分は罪深い人間だ)という意識が強かったので(恥)

(。。。おいオレ!成長過程で何かあったのか?。。。)

だから、私にとってのカトリックの価値は『赦し』なんです。。。
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by dscorp-japan | 2010-02-11 21:38 | キリスト教 | Comments(0)

『前夜式』

キリスト教、特にプロテスタント諸教会では通夜のことを『前夜式』といいます。

で、今日は名古屋市東区にある『日本基督教団・金城教会』で『前夜式』を担当してまいりました。
故人は金城学院高校の要職に就いていらっしゃった方ということで、大変に多くの方が参列されました。
実数で500名近く(驚)
献花の列は延々と続き、教会の施設内は満員電車状態でした。

前夜式が終わった後、ご遺族代表の方(仏式でいうところの喪主様)と私、お互いに疲れた顔でお話をさせていただきました。

「なんだか父が亡くなったという実感が湧きませんでした」
「亡くなったというより、旅立ちの前夜というか」

・・・ご遺族がこのように感じられたこと、とてもよく分かります。
キリスト教のお葬式は、拍子抜けするくらいに明るい。
というか、暗くない。

無論、ご遺族のお悲しみは計り知れないものと思います。
しかし『永遠の命』を信じるキリスト教は、故人との別れを『永遠の別れ』とは考えません。

「いつかまた」
「しばしのお別れ」

そしていつの日か、私たちも“かの地”へ赴いたその時には再会しましょう、と。
そういった意味では、まさに「旅立ちの前夜」でありました。

「明日はいよいよ、父の乗った電車が出発するのですね」

・・・私も一緒に、ホームで手を振りたいと思います。
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by dscorp-japan | 2010-02-10 22:51 | キリスト教 | Comments(0)

西 経一『西の風』

私の畏友(失礼ですか?彼も私のことをそう呼ぶので)・西 経一。
名古屋市昭和区にあるミッション系の学校『南山中・高等部・男子部・女子部』の校長先生であり、またカトリックの修道会『神言会』の司祭(神父)です。
だから彼は、教会の世界では「西神父様」と呼ばれ、教育界では「西先生」と呼ばれます。

西神父様とはもう20年のお付き合いになります。

はじめてお会いしたときの印象は。。。
(なァんじゃぁ~この男は!)
でした(汗)

話し方はガサツだし、無駄に声がデカイ。
顔はクドイし、手がやたらデカイ。
本人いわく
「やぁっぱオレってハンサムだよなぁ♪」

アホですわ。。。(いや、失敬)

しかし、長きにわたってお付き合いさせていただくうちに、色々と学ばせていただけます。
物事の考え方、捉え方が非常に鋭い。
そして、やはり彼の根底にある「人を慈しむ」という、ブレない理念。

ここでは、彼が学校で生徒たちに定期的に発信している文章をまとめたサイトをご紹介します。
   ↓
『南山高等中学校女子部』
(このHPの左側にある『西の風』及び『バックナンバー』というタグからご覧ください)

生徒たちに向けた文章でも、私たち大人にとってもとても良い話があります。
一度ご覧ください。
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by dscorp-japan | 2010-02-06 01:09 | キリスト教 | Comments(0)

『野村クン』



上の絵は、もう20年以上前に描いたものを動かしているものです。
現在『カトリック名古屋教区』の公式HPで使用されています。

『カトリック名古屋教区』


そして、20年以上前に描いた原画イラストがこれ

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何故か知らないが当時この絵が評判を呼びまして(照)、なんかいろんなところで使われるようになりました。
更にこの子、知らないうちに“一人歩き”し始めまして。

「この絵のモデルは誰?」

「カトリック名古屋教区長・アウグスティノ・野村純一司教様じゃないの?」

「そうだ、野村司教様によく似てる♪」


・・・実はモデルなんかいないんです・・・。

元々この絵、カトリック司祭養成を願う教会内のグループ(「一粒会」といいます)からポスター作成の依頼を受けて描いたものです。
子どもが神父様に憧れるイメージを簡潔に表しただけのもの。
それがまァどういうわけか、いつしかこの子『野村クン』などと呼ばれるようになっちゃった(汗)
当の野村司教様、あんまり良い気はしないんじゃないかなぁ・・・。
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by dscorp-japan | 2010-02-01 23:28 | キリスト教 | Comments(4)

『ロザリオ』

今じゃファッション・アイテムのひとつとなっている『ロザリオ』。
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上の写真は私の持っているロザリオのひとつです。

そもそもロザリオというのは、仏教でいうところの『数珠』のようなものです。
また、ロザリオを使用する宗教は基本的にカトリックだけです。
所謂『数珠』のように連なった『珠』は、ひとつひとつの祈りを意味します。
ローマ・カトリック教会には『ロザリオの祈り』というのがあって、これは聖母マリアの取り次ぎを願うものでして、祈る者はロザリオの珠のひとつひとつを手で繰りながら祈ります。
だからその数も基本的には決まっているんです。
ところが巷に流布するロザリオは、珠の数も配列もムチャクチャですわ。
十字架さえ付いていれば「はい、ロザリオの出来上がり~♪」ってなもんで。

巷でいわれるロザリオなんてのは、「十字架がついたネックレス」といったものですが、本来ロザリオは首にかけるものではありません。
手に持つものです。
恐らくは今から20年以上も前ですが、アメリカの歌手であるマドンナ(これまた『聖母マリア』を意味する名前です)がロザリオを首にかけて歌い踊ったことが、今の誤解の発端となっているのではと思います。
よく日本の映画なんかで、神父役の人間が首からロザリオをかけているのを見ますが、本物の神父はロザリオを首なんかにゃかけましぇ~ん。

つまり、今や『ロザリオ』の定義は二つあると解釈した方がよろしいかと思います。
①カトリック信徒が持つ、祈りのための道具
②十字架のついたネックレス状のファッションアイテム(①とは根本的に違うもの)

因みに歌手のマドンナさん、家は厳格なカトリックの家庭なんだそうな。。。

なぁんやそれ!

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by dscorp-japan | 2010-01-28 14:02 | キリスト教 | Comments(2)

『教会の危機』

しかし冷えますねぇ。。。
ま、冬はこうじゃなきゃアカンのでしょうが。

今日は比較的のんびりと過ごすことができました。
で、一人寂しくネットをいじり倒していたら、こんな記事に行き当たりました。
     ↓
『教会の危機』

なんじゃなんじゃ?と覗いてみたら、ウィキペディアの記事。
読んでみて、あらためて色々と考えさせられました。

まず、人間に宗教は必要なのか、という問題。
或いは、宗教は果たして宗教たり得るのかという問題。

最近の多くの宗教者が「宗教は哲学が形骸化したものである」的な発言をします。
その解釈は面白いんだけど、私は違うと思う。
だったら、なぜ現代社会においてこれほどの新興宗教が生まれ続けるのか。
だったら、なぜそう言う宗教者たちは哲学家にならなかったのか。

ゼニ・・・?

それもあるかもしれないけど、人はやっぱり哲学じゃなくて宗教を求めているんじゃないか、と。

で、『教会の危機』。

敢えて言います。
私は、今のキリスト教者(司祭・牧師たち)の言動が、自らの首を絞めているような気がするんです。
キリスト教の受け皿は非常に大きい。
「愛の宗教」たる所以です。
でも、何でもありみたいに“なァなァ”ではイカンでしょう。
『聖域(サンクチュアリ)』は教会の祭壇だけを言うんじゃない。
それは教義のなかにもあるはずなんです。
そういう、宗教の根本みたいなものを宗教者自ら「まぁまぁいいじゃないの」ではいけない。
絶対に!

キリスト教は言います。
「堕胎はだめ」
「死刑制度、断固反対」

それはそれでいい。
でも、それを多くの人に納得させるだけの教会であるのか?

これは、私たち一般のキリスト教信者に問いかけられている問題でもあると思うのです。
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by dscorp-japan | 2010-01-16 18:24 | キリスト教 | Comments(0)

プロテスタント教会の良さ♪

この仕事をしていると、有難いことにいろんな教会へお邪魔して学ぶことができます。
このことは、普段不信心な私にとって、とても良い刺激にもなります。

私自身はカトリック信者なのですが、決して「カトリック、最高♪」などと思っているわけではありません。
勿論カトリック信者であることを喜びにも感じていますが、他のキリスト教諸派の良いところもたくさん知っています。

プロテスタント教会全般に言えることですが、一言一言の「ことば」をとても大切に扱っているなぁと思います。
聖書のことば、祈りのことば。
そして、普段の会話で用いられることばのひとつひとつにでさえ、温かみがあります。
だから、牧師先生がたのお説教も、とてもよく考えられたお話が多いです。
そしてその「ことば」には、本当に魂がこもっているというか、パッションが感じられます。

一概には言えませんが、この点においてカトリックは、しばしば負けていると言わざるを得ません。

そしてもうひとつ。

プロテスタント教会の多くが、社会に対して、より広く門戸を開いているなぁと感じられます。
特に、はじめて教会を訪れた方を迎え入れる教会員の皆様の対応には、頭が下がる思いです。
教会員の皆様ひとりひとりが、真心をもって迎え入れてくださいます。
実はこれ、キリスト教会としていちばん大切なことのひとつだと思います。

私たちキリスト者は、カトリックであれプロテスタントであれ、或いは聖公会であれ、神様のことばを述べ伝えるという使命があります。
それは「あなたは神を信じますか?」といった会話だけではなく、人との交わり、普段の生活、生き様などからにじみ出てくるものなのでしょう。

私の尊敬する、ある神父様が豊田市の教会にいらっしゃいます。
この方、教会のそばを行き交う人たちを見かけると、必ず声をかけられます。
本当に、必ずです!

「こんにちは~!」

「今、学校の帰りなの?」

「もう風邪は良くなったの?」

声をかけられた方々は、はにかみながらもにっこり笑って応えられます。
なかには無視する方もいらっしゃいます。
でも、この神父様は声をかけ続けます。

・・・これでしょ♪
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by dscorp-japan | 2010-01-11 12:47 | キリスト教 | Comments(0)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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