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カテゴリ:キリスト教( 207 )

ミサ中のスマホ使用について

 
先日
ローマ教皇:フランシスコが苦言を呈したそうです。

『スマホを置きなさい=ミサ中も撮影、司教ら叱る』


・・・当然と言えば当然なのです。
パパ様も仰ったとおり、ミサはショーではありません。
端的に申しますなら
「祈りにスマホは要らないでしょう」ということですね。

じゃ、私はミサ中に撮影したことが無いかと問われれば・・・
ごめんなさい、あります m(_ _)m
何のための撮影だったかと問われれば
他でもありません、このブログ記事のために撮影しました・・・

私もまた
間接的にパパ様に叱られたということになります。
大いに反省しております。
もう二度といたしません m(_ _)m






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by dscorp-japan | 2017-11-12 14:34 | キリスト教 | Comments(4)

都合よく解釈しちゃえ(笑)

 
→ ネタ元のニュースはコチラ


「祈る間、実は居眠り」って
それを何と、ローマ教皇フランシスコご自身が告白した、というのです。

・・・へぇ~
寝ても良いんだぁ~ ♪

そもそも私は超ド級の不良信者ですから
自分の勝手な都合でしか祈ることなんてございません。
お願い事があるときとか
自分がちょっとへヴィな状況に陥ったときとか
そんなときしか祈ったりしません。

たまに祈るときだって
大体がベッドの中で眠りに就く前とかなわけで
そりゃ~ね、寝る体制で祈るなんて、ものの数分で “ 落ちる ” わけですよ。
気付いたら翌朝ですし。

・・・さすがにパパ様も
私のような状況を指して是認していらっしゃるわけではないと思うのですが・・・

            ♢

その昔
私の畏友:西経一神父様はこんなことを仰いました。

「日曜の朝、教会のミサに来ている信徒たちを見ると
結構 “ 舟をこいでる ” 人がいるんだよ。
でもオレはそれを微笑ましく思う。
貴重な休日に
疲れた身体に鞭打って、眠い目をこすり
わざわざ教会まで足を運んでミサに与るんだぞ。
オレは
そうやって身体と時間を割いて『教会に来る』という行為自体が尊いと思うんだ。
その行為こそが『祈り』なんだよ」


・・・私の勝手な解釈ですが
もしかするとパパ様もまた、私たちに同じようなことを問いかけて下さっているのではないのかなぁと思ったりするんです。
祈ること自体よりも
(祈ろう)と考え、これを行動に移すことこそが尊いのだと仰っているような気がするんです。


>キリスト教徒は父親の腕に抱かれた子供のような心境に達することが求められると説明し
>居眠りしやすい状況にあると示唆した。


・・・お叱りを受けるかもしれませんが
私には、それって後付けの言い訳っぽく聞こえてしまうわけで
ホントは「祈る行為に睡魔は付き物でっせ!」って仰ってる気がしたりします ^^;

でも
「それでもいいんだよ。
眠くなっても、寝てしまってもいい。
それでもいいから祈りなさい」
と仰っているように私には受け取れたんですが・・・


・・・どうなんでしょ。
私の身勝手な解釈なんでしょうかね・・・(^^ゞ






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by dscorp-japan | 2017-11-02 15:38 | キリスト教 | Comments(6)

現代カトリックは “ 異端 ” なのか

 
→ ネタ元のニュース記事はコチラ


まず
私は、第二バチカン公会議(1962~1965年)の真っ最中に生まれた人間です。
カトリック教会の大転換期を迎えたときに生を受けた人間ということです。
「それがどうした」ということでもないのですが
つまり私は、第二バチカン以前のカトリック教会を肌で知る人間ではないということです。
だから、というわけではありませんが
私が高校生の頃、第二バチカン公会議に対する肯定派と否定派それぞれの考え方や根拠について、私なりに薄っぺらくも勉強したつもりではあります。
そのうえで
私は私自身の考え方に基づいて、肯定派・否定派それぞれの良いところと思われる部分を取り入れて、自分の信仰を構築しているつもりです。


・・・私は思うんです。
キリスト教に限らず、ですが
宗教の現実的な役割って「人間の救済」であるはずじゃないですか。

「十戒を守れ」
「聖書に従え」
もちろん正論です。
でも
じゃ、それらの教えを完全に遵守出来ている人間がどれだけいるんでしょう。
少なくとも、私はまったくダメです。
保守派の方々からすれば、私などとっくに「破門」なのです。

イエス様がこの世に生を受けて
十字架に架けられたのは、罪人を「切り捨てる」為ではなかったはずです。
でなければ「罪の贖い」という考え方自体が否定されてしまうような気がします。

「離婚や再婚はダメ」
LGBTは容認できない」

でも実態として
それらの方々だって、ミサに与っていらっしゃるわけじゃないですか。
人には言えない苦しみや悩みを抱えて
神に依りすがろうとしてるわけじゃないですか。
それが
現代を生きる私たちそのものなわけじゃないですか。


異端かどうかなんて、この際どうでもいい。
大切なことは
「私たちは皆、罪人です」という自覚なんじゃないでしょうか。

「不完全な私」
「罪を犯し続ける私」
それを自覚したうえで、私たちは神に依りすがるのだと思うんです。

キリストの代弁者としての教皇フランシスコは
不完全で罪深い私たちを「切り捨てない」ために、さまざまな救いの手を差しのべて下さっているのだと思います。

罪を容認するのではもちろんなく
罪深い自分を自覚してなお、神に依りすがろうとする私たちにこそ目を向けて下さっているのだと。

イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコによる福音書:2章17節)






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by dscorp-japan | 2017-09-28 16:00 | キリスト教 | Comments(6)

百歳の洗礼式

 
今日、お手伝いを終えたお葬式
お亡くなりになられたのは、御年104歳の女性の方でした。


元々ご本人はクリスチャンではなかったのですが
その方が幼少の頃(つまり約100年近く前)、当時お住まいだった(現在の)長崎県五島市
で、何があるでもなく教会に行っていらっしゃったそうです。
何もわからないまま、ただ「主の祈り」を唱えていらっしゃったそうです。
それでも
カトリックの洗礼は受けないまま名古屋の地に移り住み
ライフワークとして短歌を詠まれ、地域紙では短歌の選者としてその才を発揮されていらっしゃったということです。

時は移って今から四年前
ご本人が100歳を迎えたとき、ご本人が「カトリックの洗礼を受けたい」ということで、ご自宅に程近い教会で洗礼を受けられました。
私の手元に洗礼式の写真があるのですが
ご本人は車椅子に座りながらも、喜びにあふれた表情で写っていらっしゃいます。


・・・凄いなァと思うんです。

おそらく幼少の頃の思いを
約100年もの間ずっと、胸に秘め続けて
ご自身が100歳を迎えたときに受洗の意思を示されたのです。

そして
ご本人はそのときの思いを謳っていらっしゃいました。

『受洗して 清められたり 我が胸も』

『一日を 神につかへし 心豊か』

『神父様に 握手いただき 胸ふるえ』

『教会の 祭壇麗し 天国か』


これを受けて
洗礼を授けられた神父様が返歌されました。

『百歳で 神の子になり 目に涙』

『百歳を 生きてなおかつ 神求め』

『神様の 秘めた計らい 今気づき』

『人生は 神の国への 一里塚』


・・・ただただ
神様の計らいに思いを馳せる思いでした。





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by dscorp-japan | 2017-09-11 16:21 | キリスト教 | Comments(4)

ローマ教皇庁の掲げる指針について思う:追記

 
8月21日の記事について
私の永年の友人である牧政さんより、貴重なご指摘をいただきました。

結論から申しますと
昨年にローマ教皇庁が発表した、火葬・埋葬に関する指針を受けて
日本のカトリック司教団は、日本における葬送文化の実態を考慮して、本指針の『日本の教会への適応』について定めたのだそうです。

情報ソースのリンクを貼っておきますので、ご一読ください。

教皇庁教理省、死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針

教皇庁教理省『死者の埋葬および火葬の場合の遺灰の保管に関する指針』の
  日本の教会での適応について

上記にある通り
ローマ教皇庁の打ち出した指針について
日本のカトリック教会は、独自のガイドラインを設けたということです。



キリスト教専門の葬儀屋さんとして
先日の記事掲載は甚だ軽率でありました。
細かい裏付けも確認せずに記事掲載してしまい
無用なご心配をおかけいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます。







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by dscorp-japan | 2017-08-26 23:02 | キリスト教 | Comments(4)

ローマ教皇庁の掲げる指針について思う

 
もう一年ほど前のニュースなのですが・・・

 → ローマ法王庁、火葬の新指針を発表 散骨や自宅保管は認めず

※ カトリック教会側の意向として
 「法王」ではなく「教皇」という表現を推奨しております。
  よってここでも「法王庁」ではなく「教皇庁」とします。


記事にあるように
教皇庁は「火葬後の遺灰(或いは遺骨)を海にまいたり自宅に置いたりしてはいけない」
と規定したというわけです。
他にも
「遺灰を親族の間で分ける(≒分骨)」
「遺品やジュエリーなどに入れるなどして保管する」
といったことも認めないとあります。

・・・う~ん。
特に火葬国である日本のカトリック信者にとっては、なかなかハードルの高いお話かとは思われますよね・・・
ただでさえ火葬が前提の国で
特に西日本エリアでは、遺骨の一部をお骨上げして、残りの遺骨は火葬場に任せるという「部分収骨」が一般的だったりします(もちろん事前に申し出れば、すべての遺骨をお骨上げすることは可能です)。


結局のところ
教皇庁の掲げる指針について、私たちはそこにある根源的な意味を理解する必要があるのではないかと思うんですね。
それはつまり
カトリック教会教義の根本にある「復活」という信仰です。


「信仰宣言(使徒信条)」という祈りの最後、私たちはこう唱えます。

「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます」

カトリック教会では
たとえ亡くなった後においても、その亡骸(ご遺体)もまたその人の人格の一部として重んじます。
何故なら
「終わりの日に復活するとき、その人は肉体をともなって復活する」とされるからです。
ですから
カトリックのお葬式の典礼には「遺体への崇敬」という項目があるんですね。
ご遺体とは、或いは遺骨もまた、そういう存在なのだということです。


※ ここからは、あくまでも私個人の見解です。

では何故
「散骨」や「宇宙葬」や「自宅安置」や「分骨」や「ジュエリー加工」がいけないのかと考えたとき
それを行う当事者たち(特にご遺族)の思いに「死者への尊厳」という認識がしっかりと根付いているのかどうかという一点に集約されるということなのではないかと思うんです。
「何故そうするのか」という、その根拠が大切なのだと。

「火葬したあとの遺骨の処遇に困る」
「納骨が面倒だから自宅に置く」
であってはならないのだ、と。

ですからたとえば
「亡くなった、愛する人と離れ難い」という思いで遺骨を自宅に安置するのなら、その意味合いは変わってくるのではないかと。
「自宅の片隅に小さな祭壇を設けて、そこに遺骨を安置して、毎日その前で死者のために祈る」
それならば認められてもいいのではないかと思うところなんですが。

終わりの日、神様が私たちを復活させて下さるとき
「遺骨のすべてが一箇所に集まっていないと復活させられない」ということではないのではないかと思うんです。
ニュース記事にもこうありますよね。
神がその全能性において遺体に新たな生命を与える妨げにはならない」
ただ
亡くなった後もなお、その「身体」であるところの遺骨もまた「その人の人格の一部である」ことには変わりないのだという認識は忘れてはならないのだ、と。
たとえそれが、遺骨のほんのひとかけらであっても。


私は常々
「人間の尊厳」という言葉を強く意識します。
特にお葬式に携わるとき、その思いを強く持とうと心がけます。
当然この「人間の尊厳」は死者にも当てはまることであり
亡くなられた方のご遺体に対してもまた「死者の尊厳」が大切にされるべきだと。

そしてその「思い」こそが
終わりの日、神様の計らいに適うことなのではないかと思うのです。


※ 追記
 本記事を掲載後
 ある神父様より、記事内容に補足説明が必要だと指摘されました。
 あらためてその記事を掲載しておりますので
 こちらをご覧いただければと思います。






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by dscorp-japan | 2017-08-21 19:22 | キリスト教 | Comments(4)

平和旬間中の24時間聖体礼拝

 
先日の記事でも申しましたように
現在日本のカトリック教会では、8月6日~15日までの十日間を『日本カトリック平和旬間』と定めて、特に平和について考え、また祈ることが推奨されています。

これにあわせて
カトリック名古屋教区では、名古屋市東区にある『カトリック主税町教会』の記念聖堂において、24時間×10日間の聖体礼拝が行われております。
この期間の毎日
午前十時からは「平和を祈るロザリオの祈り」
午後三時からは「平和を祈る主のいつくしみの祈り」
午後七時からは「平和を祈るミサ」
が行われております。

そして現在
カトリック主税町教会・記念聖堂の祭壇に安置された「聖体顕示台」が、YouTubeでライブ・ストリーミングで配信されております。

午後七時からはミサが行われる様子も視られます。

→ https://www.youtube.com/watch?v=gI64RcpkZNo

ミサ祭壇の中央に安置されているのが聖体顕示台です。
たとえこの場所に行かれなくとも
一緒にミサに与る思いで祈ることが出来るということです。


よろしければ
祈りの助けとしてご覧いただければと思います。







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by dscorp-japan | 2017-08-11 17:50 | キリスト教 | Comments(2)

8月6日の『聖書と典礼』より

 
1981年、当時の教皇:ヨハネ・パウロⅡ世が来日されて以降
日本のカトリック教会は、毎年8月6日~15日までの10日間を『日本カトリック平和旬間』と定めて、特に平和について各自が考え、また祈ることを推奨しています。
つまり
今日からの10日間はそういう「時」であるということです。


先ほど
私の所属するカトリック布池教会の夕方のミサに与ってきました。
ミサというのは平日にも行われるのですが
特に主日(日曜日)のミサにあたっては『聖書と典礼』というリーフレットが用意され
ミサに与る信徒たちは、この『聖書と典礼』に掲載される聖書の箇所や祈祷文を用いて祈ります。

で、今週の『聖書と典礼』のコラムに
カトリック名古屋教区長:ミカエル松浦悟郎司教様の文章が掲載されていましたので、今日はこの文章を転載させていただきます。


今、選択のときー「日本カトリック平和旬間」

今、世界も日本も危機的状況の中にあります。自国中心主義が広がり、極右勢力の台頭による難民、移住者への排斥、また紛争やテロが頻発するなど、世界全体が暴力的になりつつあります。その背景には、想像を絶する富の格差(上位八人の大富豪と下位三重六億人の総資産が同じ)があり、またそこへ軍需産業の利権がからむなど、歯止めが効かなくなってきています。
残念ながら、日本はその流れのなかに組み込まれるというより、積極的にその傾向へと突き進んでいます。多くの人が「ぼんやり」させられているうちに、日本政府は平和憲法の精神無視して軍事力一辺倒の政策で突き進んでおり、市民への監視、情報コントロールを強力に進めてきています。国連特別報告者が「メディアの公平性や独立性」「プライバシーや表現の自由」について数次にわたって強い懸念を表明していることは記憶に新しいところです。
こうした現実の中、ヨハネ・パウロ二世の広島での平和メッセージが今、現実味を帯びてきています。「各国で、数多くのより強力で進歩した兵器が造られ、戦争への準備が絶え間なく進められています。それは、戦争の準備をしたいという意欲があるということであり、準備が整うということは戦争開始が可能だということを意味し、さらにそれは、ある時、どこかで、何らかの形で、誰かが世界破壊の恐るべきメカニズムを発動させるという危険をおかすということです」(広島『平和アピール』1981年2月25日)と。このメッセージから36年経ち、教皇フランシスコは世界が「散発的な世界大戦」(2017年「世界平和の日」メッセージ)に入っていると指摘しています。今、方向を変えないと世界は大変な状態になっていくことでしょう。
この現実の中に教会は派遣されています。私たちを派遣し、共に歩んでいるキリストはどこに向かって歩めと呼びかけているのでしょうか。その声を聴きつつ現実を直視し、流れに身を任せるのではなく、自覚し、決意し、平和を選び取っていきたいものです。個人として、教会として。



・・・皆様それぞれ、様々なお考えがおありのことでしょう。
それはそれでいいと思います。
大切なことは
私たち一人ひとりが真剣に「考えること」なのではないでしょうか。
この十日間、私も私なりに考えていきたいと思います。






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by dscorp-japan | 2017-08-05 23:23 | キリスト教 | Comments(4)

サルヴェ・レジナ

 
他のカトリック教区のことは存じあげませんが
カトリック名古屋教区においては、聖職者(司祭、修道士など)が帰天された際
そのお葬式(葬儀ミサ・告別式)の最後(ご出棺の直前)に、参列した司祭団が柩を囲んで『サルヴェ・レジナ』を歌います。

今月はじめにあったアントニサーミ・サガヤラージ神父様のご葬儀でも
今日行われたペトロ・七種照夫神父様のご葬儀でも歌われました。


『サルヴェ・レジナ(Salve Regina)』。
一般的な和訳では『元后あわれみの御母』となります。
分かりやすく申しますなら『聖母マリア』を指します。
どのような祈りなのかをご説明するには
その祈りの言葉をお読みいただいた方が早いかと思います。

(文語体の祈り)
元后、憐れみ深き御母、われらの命、慰め、および望みなるマリア、
われらちくたくの身なるエワの子なれば、御身に向かいて呼ばわり、
この涙の谷に泣き叫びて、ひたすら仰ぎ望みたてまつる。
ああ、われらの代願者よ、
憐れみの御眼(おんまなこ)もてわれらを顧みたまえ。
またこのちくたくの終わらん後(のち)、
尊き御子(おんこ)イエズスをわれらに示したまえ。
寛容、仁慈、甘美にまします童貞マリア。


(口語体の祈り)

元后、あわれみの母、われらのいのち、喜び、希望。
旅路からあなたに叫ぶエバの子、
なげきながら、泣きながらも涙の谷にあなたを慕う。
われらのためにとりなすかた、あわれみの目をわれらに注ぎ、
とうといあなたの子イエズスを、旅路の果てに示してください。
おお、いつくしみ、恵みあふれる 喜びのおとめマリア



これを
ご葬儀の際には、司祭団がラテン語で歌うんですね。

Salve Regína, Máter misericórdiæ,
Víta, dulcédo et spes nóstra, sálve.
Ad te clamámus éxsules fílii Hévæ.
Ad te suspirámus geméntes et fléntes
in hac lacrimárum válle.
Eia ergo, advocáta nóstra,
íllos túos misericórdes óculos ad nos convérte.
Et Jésum, benedíctum frúctum véntris túi,
nobis, post hoc exsílium osténde.
O clémens: O pía: O dúlcis Vírgo María.


・・・これが美しいんですよ、本当に。

司祭団が歌いますから、男性合唱です。
しんと静まり返った聖堂に響く、伴奏なしのアカペラで歌われるサルヴェ・レジナは、本当に心が洗われるように感じます。




わずか2分ほどの祈りの歌声に包まれ
私たちは、聖母マリアの御取り次ぎを切に祈るのであります。






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by dscorp-japan | 2017-05-26 21:37 | キリスト教 | Comments(6)

訃報

 
カトリック神言修道会司祭
ペトロ・七種 照夫神父様が、5月23日午後3時52分に帰天されました。

通夜ならびに葬儀ミサ・告別式は下記の通り執り行われます。




    通夜・・・・・・・・・・5月25日(木)午後7時より
    葬儀ミサ・告別式・・・・5月26日(金)午前10時より12時
    式場・・・・・・・・・・カトリック五反城教会
                名古屋市中村区二瀬町27
                ℡ 052-412-3456


(教会へのアクセスについては上記リンク先をご参照ください)

※ 香典・供花・供物等、固くご辞退申し上げます。


どうぞ皆様、七種神父様の魂の安息をお祈りください。





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by dscorp-japan | 2017-05-23 23:22 | キリスト教 | Comments(2)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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