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『 夢を売る男 』 百田 尚樹

 
久々の「本ネタ」でございます。
本はずっと読んでるんですが
個人的な感想として、あらためて記事にするまでの作品と思われるものに出会えていないのでした。

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幻冬舎文庫(¥650+税)


輝かしい自分史を残したい団塊世代の男。
スティーブ・ジョブズに憧れるフリーター。
自慢の教育論を発表したい主婦。
本の出版を夢見る彼らに丸栄社の敏腕編集長・牛河原は「いつもの提案」を持ちかける。
「現代では、夢を見るには金がいるんだ」。
牛河原がそう嘯(うそぶ)くビジネスの中身とは。
現代人のいびつな欲望を抉(えぐ)り出す、笑いと涙の傑作長編。
(文庫本背表紙説明より)



文庫本の初版は二年前。
たしか私は本作を、そのときすぐ購入していたんです。
でもずっと読まないで、他の本にばかり手を出しておりました。

なぜかと申しますと
あの頃の百田さんに対する個人的な印象が芳しくなかったからでありました ^^;
『永遠の0』はもちろんのこと
『風の中のマリア』
『モンスター』
『輝く夜』
『プリズム』
『幸福な生活』
彼の作品自体は大好きなのですが
彼のメディアにおける(特に政治に関係する)様々な発言(というかスタンス)に、個人的に少々違和感を覚えていたということです。

本好きには「あるある」なことだと思うんですが・・・
読もうと思って本を買っておいても、ずっと後回しにされてる作品が山積みになってたりするものです。
私もまたそうでありまして (^^ゞ
先日、それこそ部屋の片隅に平積みされた未読作品の数々の中から(これでも読んでみるかァ)ということで手にしたのが本作でありました。

            ♢

・・・ところで。
皆様は(いっちょ小説でも書いてみるか?)とか思ったこと、ありませんか?

恥を忍んで申し上げます。
・・・私、ございますデス。

学生の頃
あの当時はパソコンなんて普及してませんでしたからワープロなんですけれど
3.5インチのフロッピーディスク(古ッ)に、結構なデータ量がありました。
とは申しましても
どれも皆、書きかけのものばかり(恥)
大した計画もないまま書きなぐる感じでしたから、すぐに行き詰ったり飽きちゃったりするという (^^ゞ

もちろん今はそんなデータ、どっかに行っちゃいましたけどね。

            ♢

・・・という恥さらしなエピソードを踏まえて、本作です。

上の写真にはありませんが
文庫本の帯広告にはこう書かれています。

「一度でも本を出したいと思ったことがある人は読んではいけない!」


誰にも言わなかったけど
本作を手に取ったとき(それってオレのことじゃん!)と思ったのは事実デス。



あらためて読んでみての感想。

私は出版業界のことはまったく存じ上げないのですが
本作は、いわゆる素人作家たちに出版を勧める出版社(丸栄社)の編集長である牛河原という男を中心に、出版業界の現状というか、ある種の “ 闇 ” を詳(つまび)らかにした作品、といえましょうか。
どうやら出版業界には「ジョイント・プレス方式」なるものがあるらしく
これは、出版社と作者の双方が、出版にかかる費用を負担するというものだそうです。
牛河原を中心とした丸栄社はこれを巧みに利用して
潜在的に出版意欲を持つであろう素人作家を発掘してはこのジョイント・プレス方式を勧め(或いは出版費用の全額を素人作家に負担させて)、高額な出版費用を提示したうえでその利ザヤを得ているわけです。
問題は
(少なくとも出版業界に身を置く牛河原たちの目には)到底出版するに値しない凡百な作品たちを、その作者である素人作家をおだてたりして、半ば強引に出版にこぎ着けるという商法です。
「この作品は稀代の名作です」
「間違いなく売れると思います」
などとおだてられながら
いざ出版されるとまったく以て売れない、という状況を生み出すわけです。
でも牛河原たちは涼しい顔。
売れようが売れまいが関係ない。
高額の出版費用に含まれる利ザヤが入れば良い、というわけです。

一方で百田氏は本作のなかで
特に文芸作品や娯楽小説の販売低迷状況や、現代人の活字離れの構造に対して、牛河原の口を介して鋭いメスを入れます。
本作で語られる通り
たしかに人間は様々な「物語」を欲する生き物です。
でも、今はテレビをつければ原作のドラマ化された作品がタダで観られるし
ひとたびインターネットを開けば
動画サイトなどで様々なコンテンツが無料で提供されています。

牛河原はこう言い放ちます。

「そんな時代に高い金出して
映像も音楽もない『字』しか書いていない本を誰が買う?」

・・・私は買いますけど (^^ゞ
でも、新刊の単行本はたしかに買わないですね。

牛河原はこうも言います。

「世界中のインターネットのブログで、一番多く使われている言語は日本語なんだぜ」
「本当ですか?」
「2006年に、英語を抜いて世界一になったんだ」
「70億人中、1億人ちょっとしか使わない言語なのに?」
「日本人は世界で一番自己表現したい民族だということだ」

・・・その真偽は存じ上げませんが
少なくともブログをやっている私は、何ら反論できるものではありません。
とにかく
日本には(いつかは自分の本を出版したい)と考える人間が大勢いるということでしょう。


本作を読んでいて
特に牛河原の言葉ひとつひとつに、私は痛いところを突かれたような気分になりました。

そして、そのうえで思ったこと。
若気の至りではありましたが
私ごときが(小説書くぜ)なんて、もう考えませんッ m(_ _)m
いや
本作を読んでもなお「オレは小説書くぜ!」という方は、きっと “ 本物 ” なのでしょう。


・・・つまりですね
帯宣伝にあった、あの強烈な一言は
「そんな人こそ是非読みなさい!」ってことなんでしょうね。







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# by dscorp-japan | 2017-10-13 21:14 | | Comments(2)

鼻濁音の話

 
・・・最近はあまり耳にしなくなりましたよね~

 ※『鼻濁音とは』→ Wikipedia


ウィキペディアさんによると
五十音の「な行」や「ま行」もこれにあたるとのことですが
私が取り上げたいのは「が行」の鼻濁音です。
活字では正確に表現出来きれないのですが
近い表現で書くなら「ンが」「ンぎ」「ンぐ」「ンげ」「ンご」という表記になるでしょうか。

この「が行」の鼻濁音
以前なら、たとえばテレビ局のアナウンサーがキレイに使いこなしていたものです。
でも今のアナウンサーとかのニュース読み上げなどでも、殆ど聞かれなくなったような気がします。

幼少の頃に鼻濁音について教わったのは
「接続語としての『~が』のときは鼻濁音を使いなさい」
「単語の途中の『が行』では鼻濁音を使いなさい」
「単語の最初の一音にくる『が行』のときは鼻濁音を使わない」
という感じだったでしょうか。

つまりたとえば
「学校が」と発音する際、「学校」の最初の一音である「が」は鼻濁音を使わず
接続語の「が」は鼻濁音を使う、と。
読み仮名を振るとすれば
「がっこう ンが」みたいな感じ。
たとえば
「探す」と発音する際は「さンがす」となる、と。


だから、というわけでもありませんが
そしてもちろん使いこなせているとも申しませんが
私は出来るだけ、鼻濁音を使うようにしているんです。
普段のプライベートでの会話では使いませんが
お仕事モードに入ったときには、この鼻濁音を意識して話すようにしております。
電話応対の際とか
お客様との打ち合わせのときとか。


私が古い人間だからなのでしょうけれど
鼻濁音を使いこなせる方とお話しすると、言葉がとても美しく清楚に聞こえる気がするんですね。
実際のところ
(これは決して差別などではなくて)
生活レベルが高いと思われる方とか、お家柄がよろしい方などとお話させていただくと、キレイな鼻濁音を使いこなされていらっしゃるなぁと感じることがあります。

・・・何と申しましょう
こう、言葉がサラサラと水のように流れて聞こえるというか
会話全体に柔らかさがあるというか、トゲが感じられないというか・・・


これは決して自慢などではないのですが
以前、とあるご立派なお家柄と思しきお客様のお宅で打ち合わせをさせていただいた際
打ち合わせ相手の老婦人から言われたことがあるんですね。
「とてもきれいな言葉を使われますね」って。
もちろんその老婦人は
とてもキレイな鼻濁音を使っていらっしゃいました。

尊敬語や丁寧語、謙譲語のことかと思ったのですが
(それとて使いこなせているわけではありませんが)
どうやら「鼻濁音」の使い方だったようなんです。

・・・あのときはとても嬉しかったなぁ ♪


とはいえ
今じゃ鼻濁音も化石化してるのかもしれません。
テレビのアナウンサーが使わないくらいですから
今や、鼻濁音も「丁寧な言葉遣いのデフォルト」というわけでもないのでしょう。

・・・でもね
たまにキレイな鼻濁音を使われる方とお話させていただくと(あぁ~良いなァ)って思うんですよね~






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# by dscorp-japan | 2017-10-11 17:30 | 思うに・・・ | Comments(2)

短距離走

 
いきなりですが
私は、葬儀屋さんのお仕事を「短距離走」だと思っているんです。

・・・いや
最終的にはどんなお仕事も「長く続ける」という意味においては、どれもマラソンだったりするんでしょうけれど。


世の中には様々なお仕事があって
じっくり時間をかけてひとつの物事を成し遂げる形のお仕事もあれば
限られた時間のなかで、集中してひとつの目的を達成する形のお仕事もあるわけですよね。
その意味で
葬儀屋さんってのは、やはり短距離走なんだと思うわけです。
もちろん一概にはいえませんが
ご依頼の電話があった日から、まぁ大体2~3日でひとつのお仕事が終わるわけです。

ご依頼をいただいて
打ち合わせをして準備をして
お通夜とお葬式の現場に立ち会ってお手伝いして、一応の一区切りがつきます。


で、私は思うんですよね。
このお仕事って
「短距離走」だからこそ出来るお仕事なんだと言える面がある気がするんです。
私たちはよく「ご遺族の思いに寄り添って」などと申しますが
たとえばこれを数週間の間ずっと続けろなどと言われたら、正直こっちの精神も参ってしまうような気がするんですね。
集中力が切れてしまうというか、心が持続しないというか。

お仕事の「連チャン」はいいんです。
気持ちを切り替えることが出来るし
そもそも、お客様が変わるわけですから。

とにかく
「短距離走」だから全速力で走り抜けることが出来る、と。


・・・ただ、このお仕事の特徴のひとつとして
いつ何時「よ~いドン!」の号砲が鳴るのか分からないというところ。
自宅でヨダレ垂らして寝ていても
どっかでご飯を食べてても
或いは少々体調が思わしくなくてゲンナリしてるときでも
ひとたびご依頼の電話(これが号砲ですね)が鳴ったら、とにかく走らなきゃいけないということです。

今だって時折思いますよ。
正直(このタイミングでマジかよ!)って。
でも
他に誰もいなければ “ 棄権 ” するわけにもいかないんですよね ^^;

号砲を聞いて一旦走り出したら、もうあとはゴール目指して走り抜けるのみ、です。
有難いことに、ゴールは数日後にあるわけですから
そこを目指して集中すればいいわけです。


・・・きっと
そういうお仕事だからこそ、私は葬儀屋さんを続けていられるのだと思います。





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# by dscorp-japan | 2017-10-08 16:50 | 思うに・・・ | Comments(6)

心からの言葉

 
相変わらず、記事更新も放ったらかしだなぁ・・・ (^^ゞ

・・・とはいえ
やっぱり忙しかったってのもあるんですけれどね。

            ♢

今日、お手伝いを終えたお葬式は
同じクリスチャンとして、私が長きにわたって交わりをいただいていた方でした。
少し前までお元気だったのに
病が発覚してから、ほんの数か月で天国に召されました。
ご依頼のお電話をいただいたとき
私たちスタッフ全員(〇〇さんって、あの〇〇さんじゃないよね?)と、半信半疑でした。
ウチのスタッフがご指定いただいた病院に伺って
故人様と対面してはじめて、私たちのよく知る方がお亡くなりになったという現実を受け入れざるを得なかったという・・・

とはいえ
あとは、私たちが葬儀屋さんに徹してお手伝いをするのみです。
私は他のご葬儀のお手伝い担当でしたので
ウチのスタッフが、彼なりの精一杯のお手伝いをさせていただいたのでした。
もちろん私も、自分のお仕事の合間を縫って弔問に伺わせていただき
今日は身体が空きましたので、この方のご葬儀お手伝いのサブとして現場に入らせていただいた次第です。


ご葬儀の終わり、ご子息様がご挨拶をされました。
ご挨拶の具体的な内容については控えさせていただきますが
そこで語られたお話は、亡くなられた方を知る人間にとっては、本当に心の揺さぶられるものでした・・・

そのとき、つくづく思ったこと。
会葬御礼の挨拶って、何もかしこまる必要なんて無くて
いわゆる「忌み言葉は使ってはいけない」とか、そんなルールなんてどうでもよくって
ただ、故人を偲ぶ思いを、ありのままにお話すればいいんだよなぁ、と。

重ね言葉が使われたって構やしない。
笑いがあったっていい。

亡くなられた方を知る私たちには
ご家族が、亡くなられた方のことを心から愛していらっしゃったことが分かるから。
ご家族の思いに耳を傾けて
大切な方を喪った想いを共有できたなら
私たちにとっても、それが何よりの慰めになるんですよね・・・


〇〇さん。
今まで、本当にお世話になりました。
先に天国で待っていらっしゃる由井神父様にも、よろしくお伝えください。





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# by dscorp-japan | 2017-10-05 16:05 | 葬儀 | Comments(2)

現代カトリックは “ 異端 ” なのか

 
→ ネタ元のニュース記事はコチラ


まず
私は、第二バチカン公会議(1962~1965年)の真っ最中に生まれた人間です。
カトリック教会の大転換期を迎えたときに生を受けた人間ということです。
「それがどうした」ということでもないのですが
つまり私は、第二バチカン以前のカトリック教会を肌で知る人間ではないということです。
だから、というわけではありませんが
私が高校生の頃、第二バチカン公会議に対する肯定派と否定派それぞれの考え方や根拠について、私なりに薄っぺらくも勉強したつもりではあります。
そのうえで
私は私自身の考え方に基づいて、肯定派・否定派それぞれの良いところと思われる部分を取り入れて、自分の信仰を構築しているつもりです。


・・・私は思うんです。
キリスト教に限らず、ですが
宗教の現実的な役割って「人間の救済」であるはずじゃないですか。

「十戒を守れ」
「聖書に従え」
もちろん正論です。
でも
じゃ、それらの教えを完全に遵守出来ている人間がどれだけいるんでしょう。
少なくとも、私はまったくダメです。
保守派の方々からすれば、私などとっくに「破門」なのです。

イエス様がこの世に生を受けて
十字架に架けられたのは、罪人を「切り捨てる」為ではなかったはずです。
でなければ「罪の贖い」という考え方自体が否定されてしまうような気がします。

「離婚や再婚はダメ」
LGBTは容認できない」

でも実態として
それらの方々だって、ミサに与っていらっしゃるわけじゃないですか。
人には言えない苦しみや悩みを抱えて
神に依りすがろうとしてるわけじゃないですか。
それが
現代を生きる私たちそのものなわけじゃないですか。


異端かどうかなんて、この際どうでもいい。
大切なことは
「私たちは皆、罪人です」という自覚なんじゃないでしょうか。

「不完全な私」
「罪を犯し続ける私」
それを自覚したうえで、私たちは神に依りすがるのだと思うんです。

キリストの代弁者としての教皇フランシスコは
不完全で罪深い私たちを「切り捨てない」ために、さまざまな救いの手を差しのべて下さっているのだと思います。

罪を容認するのではもちろんなく
罪深い自分を自覚してなお、神に依りすがろうとする私たちにこそ目を向けて下さっているのだと。

イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコによる福音書:2章17節)






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# by dscorp-japan | 2017-09-28 16:00 | キリスト教 | Comments(6)

引き取り手の無い遺骨の行方

 
→ ネタ元のニュース記事はコチラ


発覚したことの概要はニュース記事の通りです。
私たち葬儀屋さん目線から考えても
まず事件性は無いものと考えていいと思います。
身寄りのない方
或いは、家族や親戚がいらっしゃっても遺骨の引き取りを拒否された方の遺骨を埋葬しないまま、老齢女性の自宅で保管し続けていたということなのでしょう。

記事にもある通り
人骨は、その遺骨が誰のものかを証明する「火(埋)葬許可証」と一緒に保管されていれば、いついつまでに納骨しなければならないということはありません。
5年だろうと10年だろうと
自宅に保管すること自体は罪に問われることはない、ということです。


記事にある
「女性の夫はかつて葬儀関連の仕事をしていたとする情報があり」
というところから考えられるのは
これらの遺骨を預かったのは老齢女性のご主人であり
引き取り手のいない遺骨を預かることで、どこかから、幾ばくかのお金をもらっていたのではないかということです(あくまでも可能性としての推測ですが)。
或いは一切の預かり料など受け取らず
(ご本人の考える)善意のもとに預かっていただけ、ということかもしれません。

記事から推測する限り
当事者である「女性の夫」はすでに他界されているか、女性と離婚されて、今はいらっしゃらないということのようです。
よって、残された女性は遺骨の処遇に苦慮されて、業者に連絡されたということなのでしょう。
少なくともこの女性は
これら遺骨をぞんざいに扱って遺棄するという選択はされませんでした。
業者に連絡して引き取りを依頼したということはつまり
引き取ってもらうための費用を負担する意思があったということなのですから。
他人の遺骨であっても
その、最低限の「尊厳」は遵守しようとされたということではないでしょうか。


・・・私は
このニュースが発表されたのが「今」ということの意味を考えたいです。
「今」とはつまり『お彼岸』ということです。

私は、このニュースの当事者を責める気持ちにはなれません。
また、遺骨の引き取りを拒否されたご家族やご親戚がいらっしゃったとしても
それらの方を責めるつもりもありません。
家族の関係性などは、当事者にしか分からない事情があるでしょうから。

ただ、今思うことは
家族でも親族でもない他人の家で預かられていた遺骨が、丁寧に供養されることを祈るばかりです。






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# by dscorp-japan | 2017-09-25 00:00 | ニュース | Comments(2)

『 Like a Song 』 U2

 
私が大学受験に失敗して ^^;
浪人することになったにもかかわらずお付き合いする女性ができまして (^^ゞ
その彼女からいただいたプレゼントが、このバンドのアルバム『 WAR 』だったのでした。

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1983年発表(邦題:『闘』)


その彼女もまた、私と同じくハードロック好きの娘でして
お互いに自分の好きなバンドや音楽を紹介し合ったりもしていました。
そんななか
やはりお互いが注目していた、当時の若手バンドであるU2の新作アルバムが出るということで、その彼女がプレゼントしてくれたというわけです。
そんなわけで
私にとってこのアルバムは非常に思い出深いものでして
もちろん今もこのアルバム(LPレコード)は私の手元にあって、愛聴盤であります。


個人的な思い出があるからなのかどうか分かりませんが
私のなかでは、彼らの初期三部作(『 Boy 』『 October 』『 War 』)が好きな作品なのであります。
特に音作りの面で
プロデューサーのスティーブ・リリーホワイト氏による、独特の残響音が醸し出す、寒々とした空気感がたまらなく好きなんですね~

・・・後に彼らは世界的な名声を得ましたが
正直、彼らがこんなモンスターバンドになるとは思ってもいなかったなぁ~


で、今回の曲。
このアルバムの曲は全部好きなんですが
そのなかでもこの曲は、荒々しさと力強さが絶妙にマッチしていて大好きなんです ♪




音のひとつひとつが
ヒリヒリした痛みを伴う、カミソリのような曲だと思います。






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# by dscorp-japan | 2017-09-23 18:24 | 映画・テレビ | Comments(2)

ファーストコンタクト

 
お葬式のご依頼をいただくと
私たちが最初にお手伝いさせていただくお仕事の流れは
「病院や施設へのお迎え~搬送~送り先への安置~葬儀の打ち合わせ」
というのが一般的です。
私たちがご遺族様とはじめて直接お会いするのは
ご自宅か、ご指定いただいた病院や施設の一室や霊安室ということになります。

もう何十年もこのお仕事をさせていただいておりますが
やはりご遺族様とのファーストコンタクトって、今でも緊張するものです。

でもね
私たち以上に、ご遺族の皆様の方がずっと緊張されていらっしゃるんだと思うんですよね。
ただでさえ、大切な方を亡くされた直後です。
神経の張りつめた状況にあって
そこへきて、初めて会う葬儀屋さんがどんな人なのか。

(若い人なのかな。ベテランさんかな)
(コワい感じの人だったらイヤだな)
(安心して任せられる人だといいな)

つまりこのファーストコンタクトの瞬間は
ご遺族様と葬儀屋さん双方が緊張感の中でお会いするわけなんですよね。
お互いがお互いを、どんな人間なんだろうかと心配する瞬間ということです。

どんなお仕事でもそうなのでしょうが
私たち葬儀屋さんはこのファーストコンタクトでの応対を、とても大切にします。
いかにして、ご遺族様に自分という人間を受け入れていただけるかが、その後の流れを大きく左右しかねないからです。
お葬式を成功させるか否かの要因のひとつに
「担当者が、どれだけご遺族様と信頼関係を築けるか」というのがあります。


・・・で。
これはお客様サイドにとっても重要なことでして
「故人の家族として、どれだけ葬儀屋さんに “ やる気 ” をおこさせられるか」
というのも、実はあったりするんですね・・・

では、どうすればいいのか。

・・・って、別に何かをすべきということでは無いんです。
そこに、亡くなられた方を大切にしているという「思い」があれば充分なんです。
その「思い」の表現の仕方はそれぞれでしょう。
でも私たちも一応、お葬式の「プロ」です。
お客様がどのような態度であれ
経験則から、ご家族の、亡くなられた方を思う気持ちを感じ取るアンテナは持っております。
そこに「思い」さえあれば、私たちは
(よし、この方の為に精一杯お手伝いしよう!)
と、必ず考えます。
(そう思わない担当者は葬儀屋さん失格!)

以前にもここで書きましたが
良いお葬式にする手段のひとつに
「葬儀屋さんを、お客様の手のひらに乗せて踊らせる」
というのがあります。

・・・要は
葬儀屋さんを “ その気にさせる ” ということです。
それさえできれば
その葬儀屋さんはお客様のため、必死になってお手伝いしてくれるに違いないのです。






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# by dscorp-japan | 2017-09-16 18:23 | 葬儀 | Comments(2)

百歳の洗礼式

 
今日、お手伝いを終えたお葬式
お亡くなりになられたのは、御年104歳の女性の方でした。


元々ご本人はクリスチャンではなかったのですが
その方が幼少の頃(つまり約100年近く前)、当時お住まいだった(現在の)長崎県五島市
で、何があるでもなく教会に行っていらっしゃったそうです。
何もわからないまま、ただ「主の祈り」を唱えていらっしゃったそうです。
それでも
カトリックの洗礼は受けないまま名古屋の地に移り住み
ライフワークとして短歌を詠まれ、地域紙では短歌の選者としてその才を発揮されていらっしゃったということです。

時は移って今から四年前
ご本人が100歳を迎えたとき、ご本人が「カトリックの洗礼を受けたい」ということで、ご自宅に程近い教会で洗礼を受けられました。
私の手元に洗礼式の写真があるのですが
ご本人は車椅子に座りながらも、喜びにあふれた表情で写っていらっしゃいます。


・・・凄いなァと思うんです。

おそらく幼少の頃の思いを
約100年もの間ずっと、胸に秘め続けて
ご自身が100歳を迎えたときに受洗の意思を示されたのです。

そして
ご本人はそのときの思いを謳っていらっしゃいました。

『受洗して 清められたり 我が胸も』

『一日を 神につかへし 心豊か』

『神父様に 握手いただき 胸ふるえ』

『教会の 祭壇麗し 天国か』


これを受けて
洗礼を授けられた神父様が返歌されました。

『百歳で 神の子になり 目に涙』

『百歳を 生きてなおかつ 神求め』

『神様の 秘めた計らい 今気づき』

『人生は 神の国への 一里塚』


・・・ただただ
神様の計らいに思いを馳せる思いでした。





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# by dscorp-japan | 2017-09-11 16:21 | キリスト教 | Comments(4)

まぁいっか

 
ずっと記事更新もサボっておりました ^^;
お葬式の担当もさることながら
夏バテ & 親の面倒見などで(まぁいっか)と、ブログのことを頭から追い出しておりました。
ようやくお葬式のご依頼が止まった感じなので
久しぶりに自分のブログサイトを開いてみた次第であります。
(コメントへの返信が遅れまして申し訳ありません m(_ _)m )


どこかで読んだんですけれど
血液型がO型の人間の口ぐせが「まぁいっか」なんだそうです。
私は血液型診断みたいなの、全く信用していないんですけれど
たしかに私はO型で、考え方には常に「まぁいっか」があるのはたしかです。
でも
同じO型の父や弟は「まぁいっか」な人じゃないんですけどね~


自分で自分のことを考えてみても
私という人間の根本にあるのは「なるようになる」とか「まぁいっか」とか
基本的にダラァ~ッとした考え方があるんだと思います。
キライは言葉は「努力」と「頑張る」だし
人との付き合い方も「来る者は拒まず、去る者は追わず」だし
以前の記事でも書きましたが
「無いなら無いなりに」何とかなるわサ、というスタンスです。

つまり
基本はダメ人間だということですわ ♪
・・・って
記事更新をサボった言い訳にもならないんですけどね~


まぁいっか。
マイペースで、細々とやるようにしますわ。





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# by dscorp-japan | 2017-09-06 17:27 | 思うに・・・ | Comments(6)
line

これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
line
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