Q.キリスト教葬儀で一般的に行われる献花は、儀式として必要不可欠なのですか?
A.「儀式として必要ではありません。
しかしそこにはグリーフワークとしての意義があると思います」
献花の由来には諸説あるようですが、太古の昔より人間は「死者に花を手向ける=献花」を行っていただろうと考えられています。これは決して日本独自のものではなく世界各地の移籍(たとえばイラクのシャニダール洞窟遺跡)などからも遺体に花を手向けたであろうと思われる痕跡が発見されているそうです。一説には「供える植物の薬効によって遺体の腐敗を遅らせるため」或いは「遺体を荒らそうとする動物から守るため」という考え方もあるそうです。
ここからは私見ですが「遺体の腐敗を遅らせる」「死者の身体(と魂)を守る」という意味のほかに、もっと人間の根源的な感情の表現として「花を手向ける」という行為があったのではないでしょうか。
私たちが大切な人を亡くした際、そこには故人を偲ぶことを表現する何らかの「行為」が必要なのではないでしょうか。ある人は故人の亡骸に手を合わせ、ある人は故人の亡骸を前にして頭を下げ、そしてある人は、すでに故人の魂は宿っていないはずの遺体に向けて話しかけたりします。それらの行為がキリスト教の教義と相反するか否かは別として、私たち人間には故人を偲ぶ表現としての、何らかの「行為」が必要なのかもしれないということです。
つまりそれら行為の一つひとつが『グリーフワーク(喪の作業)』の一環なのではないかということです。
私自身はカトリック信徒ですが、プロテスタント諸教会では「遺体を崇敬の対象とすべきではない」という考え方があると聞きます。死者の魂はすでに天国にあり、眼前に横たわる遺体は文字通り「亡骸」であるということです(カトリック教会は遺体への表敬を否定しておりません)。
であるならば、先に述べた「遺体に手を合わせる」「遺体に頭を下げる」という行為の代替表現として「献花(飾花)」があると捉えられることはできないでしょうか。私たち誰もが持ち合わせるであろう「故人を偲ぶ思い」を、献花(飾花)という行為を通して表現することによって、グリーフワークの一環と捉えるということです。その行為自体に何らかの理屈や根拠を付与するのではなく、ただ故人を偲ぶ思いの表出として献花(飾花)があるのだと捉えることによって、大切な存在である人を亡くしたご家族やご友人たちの慰め=グリーフワークとなるのであれば、献花(飾花)にもまた意味があるのではないかと考えます。
「献花(飾花)が儀式として必要か否か」と問われれば「必ずしもなくてはならないものではない」という回答になりましょう。ただ宗教的な教義を超えた「人間の根源的な思いの表現」としての献花(飾花)はグリーフワークの一環として有効であると言うことはできるのではないかと思います。