恥知らずな信仰で良い
三たびの、映画『 沈黙 』に関する記事でございます m(_ _)m
前回の記事で
映画『 沈黙 』の重要な登場人物であるキチジローの信仰心について、私は “ 恥知らずな ” という表現をしました。
念のための補足ですが
具体的には、キチジローによる周りの人間への裏切り行為やキリスト教信仰を否定する行為(踏み絵を踏む・十字架に唾を吐く)と、その後に寄りすがるイエスによる救済 ≒ 告解 (赦しの秘跡))を求めるのを繰り返す様を “ 恥知らずな信仰心 ” と表現したわけです。
この世における人間社会の常識から考えたとき
キチジローが繰り返す「 裏切り ⇆ 回心」のループは、間違いなく恥知らずな行為のはずです。
或いは厳格なクリスチャンからみてもそうなのかもしれません。
そのような理解の上で
私は、キチジローの “ 恥知らずな ” 信仰こそが罪深い私たちにとっての「佳き模範」として捉えられていいのではないか、と申し上げたかったのです。
♢
すでに何度かここでも触れさせていただいております。
ウチの会社の名前は『 ディーズ(D's)』です。
この意味は
イエスが十字架に架けられたときの両脇に、同じように十字架に架けられた二人の罪人のうちのひとりから取っております。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ここに登場する、イエスに「わたしを思い出してください」と言った罪人を
多くのキリスト教会では「佳き罪人」或いは「右側の罪人」などと呼びます。
聖書自体には彼の名前がありません。
しかし外典を調べますと、そこには『Dysmas(デュスマス・ディスマス)』という名前(実際には俗称らしいのですが)が記されております。
彼の頭文字からとった『D's』とは
デュスマスの信仰心(Dysmas's Faith)こそが、罪人である私たちが死に葬られたときの救いとなるに違いないと考え、私たちの考える葬儀を執り行う会社の名前に相応しいと決めたのでした。
♢
たとえば私自身のことで申しますと
私は何回も、それこそ何百回も何千回も、同じ罪を犯し続けてきております。
それが罪であると知りつつ
確信犯的に犯し続けている罪もあります。
そしてそのたびに
しれッとしたツラをして告解部屋に向かいます( “恥知らず ” にも!)。
毎回のように同じ罪を告白します。
告解部屋のなかで罪の告白をしながら
(どうせオレ、またやるし)と思いながら、です。
「それじゃ意味が無いじゃないか」
そうかもしれません。
でも
それでも私は繰り返すんです。
「 罪を犯す ⇆ 赦しの秘跡 」の無限ループを。
罪を告白するとき
(どうせオレ、またやるし)とは思ってますけれど
それでも「ごめんなさい」の気持ちだけはあるんですよ。
つまり
(何度言われても直そうとしないガキみたいなオレだけど
だけど「悪い」とは思ってるんです。
だから赦して下さいな)
ということです。
・・・“ 恥知らずな ” キチジローと私、どこが違うのでしょう?
・・・いや
キチジローは最後までその “ 恥知らずな ” 信仰を貫きました。
私は、それを貫き通すことすら出来ないかもしれないのです・・・
♢
私見で申しますと
この世における人間の価値は、死ぬ瞬間にこそ決まるのだと思います。
逆に申しますなら
死ぬ瞬間まで、自分を正すチャンスがあるということです。
どれだけ罪を犯していても
それが何百回も何千回も繰り返されたものでも
それが確信犯的に重ねられた罪だったとしても
死ぬ直前に、心から「ごめんなさい」「私を憐れんで下さい」と神に依りすがることが出来れば、それで良いんじゃないかと。
それがデュスマスの信仰であり
キチジローの信仰なのではないかと考えるのです。
明日小牧コロナワールドに行こうと思いますが、朝、午後、夕方との上映時間。
あなたも分かりますね、どの時間に行くか。
会社の名前にこだわらず厳しい商売を続けてください。
dysmasさん、おはようございます。
会社名とハンドルネームに、そのような思いが込められていたとは。お教えくださり、ありがとうございます。
罪を告白する時の気持ちを率直に語ってくださったことにも感謝しています。私も同じような気持ちを抱えており、そんな自分をずっとやましく思い、責めていたので。「 罪を犯す ⇆ 赦しの秘跡 」の無限ループを繰り返しながら生きている自分を受け容れるのは、正直、カッコ悪いし、しんどい…とずっと思っていた私。
でも、dysmasさんのおかげで、自分自身が「今の私、どうしようもなく最低だ!大嫌い!ゆるせない!」と思っている時でさえ、神さまは私を愛してくださっているんだ…ということに改めて気づかされました。
>どれだけ罪を犯していても
>それが何百回も何千回も繰り返されたものでも
>それが確信犯的に重ねられた罪だったとしても
>死ぬ直前に、心から「ごめんなさい」「私を憐れんで下さい」と神に依りすがることが出来れば、それで良いんじゃないかと。
…というdysmasさんのお言葉、すごく心に沁みました。dysmasさんに感謝!神に感謝!
ところでMikeの新作「Return to Ommadawn,」聴きましたか? 自分は聴いてみて複雑な心境です・・・また君の感想を聞きたいです。
お返事が遅くなり申し訳ありません m(_ _)m
息子さんについてのイエス様の評価、ですか。
私の信じるイエス様は「人を評価する」などということはないと思ってます。
すべての人間に全き平等の愛情を注いていて
ただ、あるがままのその人を慈しみ、愛してくれているのだと私は信じております。
「すべての人間がこの世で生を受けたことには必ず意味がある」
その意味が何であるかを考えながら
神様からいただいた命を大切にすることに専念すればいいのだと思う次第です。
「沈黙」、是非観てきてください ♪
お返事が遅くなりました m(_ _)m
・・・まァ結局のところ
ウチの社名の由来って、私自身の慰めのために付けたようなものだったりするんですけれどね (^^ゞ
因みに『Dysmas's Faith』を『D's』と略すようにアドバイスしてくれたのは西神父様でした(笑)