『信教の自由』に思うこと
とある方からいただいたコメントから
思うところをつらつらと書いてみたいと思います。
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日本国憲法の第20条に『信教の自由』というのがありますよね。
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
世界に目を向けると
たとえば『世界人権宣言』の第18条にはこうあります。
すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。
この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。
私は葬儀屋さんですので
少なくともお葬式に関連するうえでの宗教は、どんな宗教もすべて尊重することを忘れないようにしようと考えております。
故人様或いはご遺族様が信仰されていらっしゃる宗教であれば
それが長い歴史のある宗教であれ、いわゆる新興宗教であれ
たとえその宗教が(様々な理由から)社会的な批判を受けているものであれ
また仮に
私個人の心情としては受け入れがたい宗教であったとしても、少なくともお葬式の間だけでも、私はその宗教を尊重するスタンスを堅持したいと思っております。
これを遵守することが
葬儀屋さんとしての、葬儀を行われる当事者皆様に対する最低限の礼儀だと考えるからです。
・・・これはマザー・テレサから教わったことです。
そしてもうひとつ。
自分の信じる特定の宗教があるとしても
殊更に他の宗教のことを批判したりすることは厳に慎むべしと考えております。
それをすれば
その宗教を信仰される方の人間性そのものを否定することになりかねないと考えるからです。
もちろんその宗教が
社会的な犯罪に加担する(或いはその疑いがある)団体である場合は、この限りではありません。
というか、これも私見ですが
その団体はもはや「宗教」ではないと捉えておりますので。
♢
私の考え方が正しいか否かは分かりません。
ただ
自分の信じる宗教が正しいと信じるのは良いとしても
それ以外の宗教を闇雲に批判したり否定することって、結果的に自分の信仰する宗教の器の大きさというか品位を貶めることになると思うんですね。
「アナタが救われて私は救われないのですね」
「アナタからすれば、私は堕落した人間なのですね」
「私はアナタの宗教に何らの意見を申し立てるつもりはありませんけれど
アナタは私の宗教にもの申されるのですね」
人間の心を動かすのは、決して「北風」ではない。
「太陽」こそが、旅人の外套(がいとう)を脱がせるのですよ、と。
今日は久しぶりに。良いね。
あ、元先生でしたね(^^;
マザー・テレサが亡くなった方を弔うのに、その人の宗教の弔いの方式をなさっていたことを知ったときは感動しました。人はそれぞれにそれぞれの宗教を持っており、その宗教によって心の平安を得ているものです。他宗教の人がどのようにして救われるか、キリスト教徒であろうとなかろうと、個人の救いの問題は、それは、それは神様が決める問題であって人間の決める事ではないのではないのでしょうか。"宗教"って・・・むずかしい(-_-;)
来月になれば・・・良いことがあるかも?(笑)
いろいろと御苦労なさっていらっしゃるようですが
私の知る限り、同様なお悩みを抱えてる方は本当に大勢いらっしゃるようです。
またいろいろな方の御意見を聞かれながら、歩んでいかれることをお勧めいたします。
私はやはりそこに「人間の尊厳」というテーマがあるように思えてなりません。