D’s(ディーズ)さんのぶろぐ

dscorp.exblog.jp Top

「呼ばれた」

 
私たちはよくこう言いますよね。

「まだお迎えがこない」
「どうやらまだ寿命じゃないようだ」

・・・どうやら私たちは、人間の一生を受動的に捉える側面があるようです。
「お迎え」という表現も「寿命」という概念も
人間を超える存在(≒神)に委ねられていると捉えている証左であるような気がします。
それが真理か否かは別としても
私たちはそう考えることで「死」を受け入れようとしているのではないでしょうか。


さて。
キリスト教においても同じような表現がよく使われます。
それは
「神様から呼ばれた」という表現です。

特にキリスト教的表現においては
必ず『神様から』という主語が付くところに特徴があるような気がします。
主語の有無なんて小さなことかもしれません。
でも、このほんの小さな特徴に
私は大きな意味があるように感じられてなりません。

もちろん「主語」がつかないからといって
その主語が「無い」ということではないのでしょう。
それは「お釈迦様」かもしれないし「天照大神」かもしれない。
特定の宗教に限定しない「神様」かもしれない。

しかし
特にキリスト教ですと大抵の場合、はっきりと「『神様に』呼ばれた」と表現します。
キリスト教の信じる「神様に」と付け加えることで
「生と死を司る神に信頼を置く」という、ある種の「救い」を明確に宣言しているように感じられるのです。

もうひとつ
個人的に好感が持てるのが「呼ばれた」という言い回しです。
神という存在から
「神は、他ではない『貴方』に呼びかけられたのだ」という意味において
私たちひとりひとりが、神様から「特別に愛されている存在である」というニュアンスを感じられるからです。

この世での人生を全うし
“ 次のステージ(≒天国)” への旅立ちには間違いなく「神」という存在が介在しているのだと信じることで
私たちは「死」を、畏れつつも受け入れることが出来るということなのではないでしょうか。

そして
それこそが神の愛に信頼を置くということであり
キリスト教のいう『救い』なのだと思うのです。






[PR]
by dscorp-japan | 2016-05-13 16:22 | 葬儀 | Comments(2)
Commented by pga2152 at 2016-05-15 20:30
pga2152です。私の神様からのお迎えは、早い気がします。天に召されるのは、あと60年後で良いと思いました。死んだら時の為に葬儀カタログを見たい気がします。
Commented by dscorp-japan at 2016-05-17 00:12
☀pga2152さん。
誰だって「呼ばれる」のはずっと先でいいと思うのが普通だと思いますよ~
line

これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
line
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30