宗教者としての謙遜
前日の記事でご紹介しました映画を観て、個人的に思ったこと。
「宗教者とはどうあるべきなのか」
もちろん私は宗教者ではありませんし
なったこともない宗教者に対して、モノを言える立場ではないと心得ております。
どの宗教であれ
(少なくとも世間からその存在を認知・理解されている宗教であれば)
宗教者になられた方(或いはなられる方)を、私は尊敬しております。
「世襲制だから」
「お金が儲かりそうだから」
どのような理由であったとしても
宗教者になることで払うであろう、自身の犠牲が無いわけではありません。
敢えてそこに踏み込むという決断をすることは、並大抵のことではないはずです。
・・・恥ずかしながら
若かりし頃、ほんの一時期だけ、ほんの少し司祭職に憧れたことがあります。
でもすぐに諦めました。
自身の人生を打算的に考えた時
それは得策ではないと判断したからです。
「欲」と「打算」と「傲慢」が、「憧れ」に勝ったということです。
だから私は
基本、無条件に宗教者を尊敬しております。
♢
・・・という前提のうえで
あらためて、私の思う宗教者としての在りようについて。
特に、前日ご紹介した映画を観て考えさせられたこと。
「はたして宗教者は、信徒に対して立場が上なのか」
「宗教者とは権力者なのか」
「裁判官なのか」
件の映画では
村の皆が信仰するプロテスタント教会の牧師が登場します。
村の経済面における支配者である男爵とともに
この牧師は宗教面(或いは精神面)における指導者であり、ある意味において「支配者」として描かれます。
「神の代理者」としての牧師の言動は常に正しいとされ、半ば絶対的です。
映画のなかの牧師は「裁判官」なのです。
自身の息子や娘に対してさえ同様で
牧師は父親として、子どもたちに(体罰を伴う)重い罰を課します。
♢
さて。
ここで新約聖書にある言葉を引用します。
「人を裁くな。
あなたがたも裁かれないようにするためである」
(マタイによる福音書/ 07章 01節)
「人を裁くな。
そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。
人を罪人だと決めるな。
そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。
赦しなさい。
そうすれば、あなたがたも赦される」
(ルカによる福音書/ 06章 37節)
私の知る限りにおいて
良き宗教者とは、決して他者を断罪することのない人です。
罪は罪として教え諭すことはあっても
決して裁き手とはならない人です。
そして
信徒と同じ目線に立てる人。
「私もあなたと同じ罪人です」
という前提に立ち、宗教者であっても同じ人間であるという姿勢を崩されない人。
♢
以前にも書きました。
私の尊敬してやまない
カトリック名古屋教区長であったアロイジオ相馬信夫司教様は、生前私に仰いました。
「大丈夫、オカダ君。
何も心配しなくていいんだよ。
オカダ君が死んだ後に行く先には、必ず僕がいるから」
・・・もう30年近くも前にいただいた言葉です。
この言葉をいただいて以降
何度この一言に慰められ、救われたことでしょうか・・・
カトリック司教としての権能を与えられ
信徒たちからの尊敬を集め、慕われた司教様は
司教としての権威を一切振りかざすことなく、私と同じ目線で語ってくださり、決して私を裁くこともありませんでした。
♢
時として
私たちに与えられた社会的立場は、私たち自身を「裁判官」に仕立て上げます。
知らず知らずのうちに、私たちは自分の置かれた立場に溺れてしまいがちです。
自分に対して盲目になってしまうのです。
そして
もしかすると、宗教者もまた例外ではないのかもしれません・・・
良き宗教者とは
「傲慢」という「躓き」と闘うことを諦めない人なのかもしれません。
正しいこと。
優しいこと。
博識であること。
もちろんそれらも大切でしょう。
しかしそれ以上に
常に「謙遜」であること。
良き宗教者としての絶対条件があるとすれば
それは「謙遜さ」ということなのではないかと思うのであります。
相馬司教様がいらっしゃるところかぁぁぁ
なんだか、ふぅぅっと肩の力が抜けた感じです…
安心感と安堵感で、思わず涙腺が緩みそう…