映画 『 エンディングノート 』 ②
前記事からの続きということで
今回は本作を葬儀屋さんとしてではなく、ひとりの映画ファンとして観た感想を申し述べさせていただきます。
前回の記事でも申しました通り
この映画は(結果的に本作の監督となられた)砂田麻美さんが
ご自身のお父様でいらっしゃる砂田知昭さんの、がん告知を宣告されてからその生涯を終えるまでをカメラで追い続けた、ドキュメンタリーです。
どうやら当初は、この映像を映画作品として世に送り出すというお考えはなかったようです。
職業として映画製作に携わり、またプライベートにおいても日常的にご家族の記録を撮り続けていらっしゃった麻美さんは
ただ純粋に(ご本人曰く「後悔しないため」に)お父様の最期までをフィルムに収めることにされたのだそうです。
・・・そうは言っても
おそらく相当なストレスを伴う作業だったのではないでしょうか。
ご自身の父親ががんに侵され衰弱していく様を、映像として残すというのです。
本来なら娘として、ただ父親のそばに寄り添うことに専念したいはず。
その思いを抱えつつも、麻美さんがカメラを回す手を止めなかったその意志が
結果的に本作がドキュメンタリー映画として成立している、第一の要因です。
映像のなかのお父様は、とても強い方とお見受けしました。
そしてまた
カメラを回し続ける娘・麻美さんもまた、とても強い方なのだと思いました。
がんと向き合い、死とさえも力強く向き合おうとなさるお父様と
そのご様子を間近で見つつ、映像に残そうとされた麻美さん。
このお二人だからこそ
この映画は奇跡的なまでに素晴らしいドキュメンタリーになっているのだと思います・・・
・・・映画の内容は、是非皆様ご自身の目でご覧になっていただきたいです。
もう
映画の1カット1カットのすべてが、何とも愛おしく感じられます。
ときに可笑しく、ときに優しい。
いつしか
観ている私たちが、あたかも砂田家の一員になったかのように感じることでしょう。
私なんかは
(家族って良いな)としみじみ思ったものです。
それは、砂田家のご家族が本当に暖かいからです。
・・・そして
その暖かい家族を作られたのは他でもない、お父様その人なのです・・・
♢
最後に。
本作において
お父様がご自身の葬儀をカトリック教会で行うことに決められた経緯について触れられています。
どうやらお父様にさしたる信仰心は無いようで
「現職中によく目にした教会(カトリック麹町 聖イグナチオ教会)が心に浮かんだ」
「(キリスト教葬儀の方が)コストがリーズナブルだから」
といった理由らしいです。
ネットの本作に対する感想などでは
こうした価値観でキリスト教葬儀を選択されたことに対する、特に宗教的側面からの批判が散見されました。
・・・私は全然アリだと思います。
良いじゃないですか。
それが砂田さんの、キリスト教との出会い方だったのですから。
もしも砂田さんの選択が非難されるべきものならば
大した信仰心などないままキリスト教会で結婚式を挙げるカップルは皆、等しく非難されるべきでしょう。
きっかけなど何だって良いんです。
打算だろうと
憧れだろうと
要はキリスト教に「触れる」ことが大切なんですから。
神様って
私たちが思いの及ばないような方法で、私たちに手招きして下さったりするんですよ(笑)
父の思い出を残している 結婚式の映像ももう20年にもならうとしますが 見たくありません。まあ 真ん丸の自分と あまりに若い相方が悲しいのもあります(笑)
やはりこの映画は監督魂が必要だった気もします。
私は 音楽にこだわり それによって 私を思い出していただける葬儀をしたいです。
夫は 娘たちの弦楽二重奏で送られたかったようですが 幼児の頃には諦めておりました。
神様が呼んで下さるかは もう心配しないことにします。
だって シスターから 素敵な神父さまやディーズ様にも 私からの図々しいですが(汗)出会いもいただきましたし。
昨日より 再び入院です。
腹を据えて治したいです!!
しかし 終わりのことも考えたいとも思います。
>神様が呼んで下さるかはもう心配しないことにします
・・・って仰いますが
私が思うに、とんまるきさんはもう十分過ぎるほどに手招きされてますよ(笑)
そしてとんまるきさんもまた、すでにその招きに応えていらっしゃると思いますよ ♪
「教会へ行く~キリスト教要理の勉強をする~洗礼を受ける」
私は、それだけが神様への道じゃないと思っています。
ご存知かと思いますが
マザー・テレサは『死を待つ人々の家』で最期を迎えた人たちを送る際、カトリック葬儀だけで葬ったわけではありません。本人の宗教を尊重し、ヒンドゥー教徒ならヒンドゥー式の、イスラム教徒ならイスラム式のお葬式を挙げられたそうです。
ではそれらの方々は神の愛に招かれていなかったのか?
決してそんなことはないと思いますよ。
私たちが案ずる以上に
神様はずっと懐が深いはずなんです。