あの鐘を鳴らすのは・・・
和田アキ子さんの歌の話じゃありません・・・(でも名曲です)
先日私がご葬儀の担当をさせていただいた故人様について、奥様から伺ったお話。
亡くなられたご主人様は80歳+。
どちらかというと寡黙で、目立つことを嫌う方だったそうです。
教会での奉仕活動も、専ら裏方に徹していらっしゃったとのことでした。
そしてご主人様は生前、長きにわたって
所属されていた教会の鐘を鳴らすことを自らの役割と捉えられ、毎週欠かさず教会に向かわれたのだそうです。
「私が『今日は面倒くさいからサボりましょう』と言っても
主人は頑として教会に行くことを止めませんでした」
それこそ
台風が来ようと
大雪が降ろうと
ご自身の体調が芳しくないときでさえも
自らの役割を完遂すべく、必ず教会に向かわれたのだそうです。
「他のことは全てお任せいたします。
ただひとつだけ
主人が出発(出棺)するときにはどうか、教会の鐘を鳴らしてやって欲しいんです」
お葬式の当日は見事な秋晴れでした。
お葬式の終盤
お柩の蓋を開けてお別れをされるとき、奥様はずっとご主人様のそばに寄り添っていらっしゃいました。
「あなた、本当にありがとう」
そう仰って
静かにご主人の唇にキスをされました。
・・・そして
霊柩車がクラクションを鳴らした瞬間、教会の鐘が鳴り響きました。
聞き慣れたはずの鐘の音は
いつもとは違って聞こえました。
信仰というのはそういうものでしょうか。
私は教会に何を寄与しているのだろうか。
考えてみると、普通の信者で特別なことはしていません。
ミサの信仰、オルガン奏者・・・
やれそうなことはあるのだけれど、やっていない。
そして私の所属協会には鐘はありません。
教会を立ち上げた、神父様(故人)の考えによるものです。
教会というのは建物ではない。
人が集まる場所が教会なのだ。
だから鐘はいらない。
尖塔もいらない。
クリスマスのミサに時には、典礼の始まりにはCDに録音されている鐘の音を使われていました。
これは、今回のお話にケチをつけるためのコメントではありません。
私の所属教会において、故人様が使命を全うされたからのような仕事があるかあらためて考えたいと思ったからなんです。
私にもいずれ訪れる帰天の時、故人様のようにやっていただくことがあるのかと。また、それが見つかった場合も、その資格があるのかと・・・
考えさせられました。
そのようにお考えいただくだけで充分かと思います。
私なんか、教会に貢献していることなど何一つありませんヨ(恥)
生前、故人様は奥様に仰っていたそうです。
「この鐘の音が近所の方の心に何か残せていればいいが」
それもまた信徒使徒職としての宣教なのでしょうね。