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『平和旬間』

日本のカトリック教会では
毎年8月6日(今日)~15日(終戦)までを『平和旬間』と定めています。

去る1981年
ローマ教皇:ヨハネ・パウロⅡ世が広島へ訪れた際に
「戦争は人間の仕業です。
戦争は人間の生命の破壊です。
戦争は死です」
と訴えられました。
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これを受けて日本のカトリック司教団は
広島原爆投下、長崎原爆投下
そして終戦の日までの10日間を、特別に平和のために祈るための期間として定めたのでした。

あらためて考えてみると
私たちにとってこの10日間は、非常に特別な意味を持つものです。
多くの人命が人の手によって一瞬で奪われ、それが一度ならず二度も、他ならぬこの日本において起こってしまいました。
宗教とか政治理念とか
そんなものを越えたところで、私たちは考えなくてはいけないのだと思います。
何度も、何度も。

理屈をつけることは簡単です。
でも
何千何万という人命を奪うという行為が、かつて実際に人の手によって行われたという「事実」は決して消え去るものではありません。

            ♢

『戦争の抑止力』という考え方があります。
「平和のための核保有」
「平和維持のための軍備」
理屈は分からないわけではありません。
でも
私は、その考え方はあまりにも傲慢に思えてなりません。

仮にそれら様々な兵器を保有したなら、果たして私たちはそれで安心できるのでしょうか?
それぞれの国がお互いに核(或いはその他もろもろの兵器)を保有して、お互いを牽制することが、果たして平和のカタチといえるのでしょうか?
それら兵器を保有した私たちは
「決して使用しない!」と、本当に自らを律することが出来るのでしょうか・・・?

人間は感情を持つ生き物です。
誰だって、自分の感情を抑えきれずに怒りを爆発させることがあります。
多くの場合、私たちの良心と倫理観は、その怒りを行動に移してしまうことを抑止してくれることでしょう。
しかし一方で
今この時代においても、怒りにまかせて人を殺める事件が後を絶たないのも事実です。
「思わず刺してしまった」
「思わず引き金を引いてしまった」

それは
誰にだって起こりうることだと思うんです。

「思わずボタンを押してしまった」
が、果たして絶対に起こり得ないと言い切れるのでしょうか?

私たちが本当に“抑止”しなければならないのは
自らの“怒り”であり“傲慢さ”なのであって
ただ相手を威嚇することで平和が保たれるという理屈は
それは終わったはずの『東西冷戦構造』と何ら変わりはないのだと思うんです。

「オマエは現実を見ていない!」
「オマエ自身やオマエの大切な人が危ない目に遭っても、オマエはただ為すがままでいられるのか?」

理想主義で生きていけるのか?と問われれば
「分かりません」と答えるしかありません。
「オマエはバカだ」と言われれば
私はバカなのかもしれません。

でもいいです、私はバカで行きます。
愚かで、無防備な理想主義者の葬儀屋さんで、いいです。

何故なら
神様を信じてるから。

            ♢

最後に
日本カトリック司教団が発表した
『平和のための祈り 2010』を掲載します。

全能の神よ、
あなたがお造りになったこの美しい世界は
多くの戦争によって汚されてきました。
あなたがお造りになった人間は、
数知れない兵器によって
いのちを奪われてきました。

神よ、わたしたち人類に、
核兵器や軍事基地に頼るのではなく、
非暴力による平和への道を歩む
勇気と知恵をお与えください。
十字架によって、
すべての人の和解をもたらされた
主イエス・キリストをとおして
この祈りをささげます。アーメン。

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by dscorp-japan | 2010-08-06 12:32 | キリスト教 | Comments(0)
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これでも葬儀屋さんのブログなのだ


by dysmas
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